水は記憶する。
流れは、ただ過ぎ去るだけのものではない。
その透明な身体の中に、無数の声が刻まれ、無数の影が映り込んでいる。
人の心も、神々の思念も、すべては水という鏡に映され、やがて流れとなって時を遡る。
この詩集に収められた作品群は、古代より語り継がれてきた「知恵の鮭」の伝承を、さまざまな形式で再構成したものである。
神話詩、祈祷詩、祝詞――それぞれの語り口は異なれど、すべてが同じ源泉から流れ出ている。
知恵の鮭とは何者か。
それは、天地が分かれる以前から存在した「原水」の記憶を宿し、流れを遡りながら忘れられた言葉を拾い集める、水の化身である。
その旅は永遠であり、その使命は還ることにある。
現代を生きる私たちもまた、日々の喧騒の中で多くのものを忘れ、流し去っている。
しかし、水は覚えている。川の底には、今もかすかな光が瞬いているはずだ。
この詩集が、読者のみなさまにとって、忘れかけていた何かを思い出すきっかけとなれば幸いである。
静かな夜、水のせせらぎに耳を澄ませてみてほしい。
そこには、きっと知恵の鮭の声が響いているだろう。
詩作:「知恵の鮭」
月は川面を歩み、
森の奥で古い声が響く。
――わたしは、時を遡る魚。
星々がまだ幼かった頃、
知恵の源をひと口ふくんで生まれた。
氷を溶かす流れの底で、
記憶は光の粒となり、
わたしの鱗に宿った。
誰も知らぬ昔の言葉、
滅びた村の歌、
一度だけ語られた夢の続きを、
わたしは泳ぎながら思い出す。
やがて、山の霧が開き、
古の賢者が呼びかける。
「知恵の鮭よ、世界は何を忘れたか」
鮭は答えぬ。
ただ、水面に身を返し、
その跳ねた一瞬の光のなかで、
森も月も、ひとつの記憶となる。
夜明け前、
川は静かに呟く。
「知恵とは、生まれた場所へ還ること――」
知恵の鮭 ― 天の河の伝承 ―(神話詩)
天地が分かれる前、大いなる川に一匹の鮭が生まれた。
光のしずくを心に宿し、流れを遡りながら忘れられた言葉を集める旅。
天の門を超えて星の河となった知恵の鮭の神話詩。
水と記憶をめぐる幻想的な物語。
はるか昔、
天と地がまだ別れぬころ、
大いなる川があった。
その川は、神々の思念を運び、
星々の影を映して流れていた。
そこに一匹の鮭が生まれた。
名を持たず、声も持たず、
ただ、光のしずくを心に宿していた。
そのしずくこそ――
天地のあいだを往く「知恵の種」。
鮭は流れを遡りながら、
忘れられた神々の記憶を拾い、
風より古い言葉をひとつずつ飲み込んでいった。
やがて彼は天の門へと至る。
門の番人は問うた。
「汝、何を求めてここまで来たか」
鮭は静かに尾を打ち、
月光のような声で答えた。
「我はただ、知恵を水へ返すために」
その言葉に、門は開かれた。
銀の流れが天へ昇り、
星の河となって夜空をめぐる。
いまもその光は、
北の果ての水源に宿り、
古き魂を導くという。
そして、夜ごと川の底から囁く。
――「知恵とは、還ること。
流れとは、記憶のかたち」
祈祷詩:知恵の鮭(ちえのさけ)
水は記憶、流れは祈り。
天の川に宿る光の御霊・知恵の鮭に捧げる祈祷詩。
忘却の深みに沈んだ言葉を水面へ返し、世界の記憶を清める水の賢者への讃歌。
荘厳で神秘的な祈りの言葉。
天(あめ)の川に坐(ま)します光の御霊(みたま)よ、
われら、流れの子らの声を捧ぐ。
水は記憶、
流れは祈り、
そしてその中心に、知恵の鮭あり。
彼は沈黙より生まれ、
闇よりも古き思念を抱きて泳ぐ。
その身に宿るは、
星々の欠片、神々の涙、そして真理の息。
おお、知恵の鮭よ。
その鱗は月光の文(あや)を織り、
その瞳は千の時代を映す。
われら汝を呼ぶ。
忘却の深みに沈みし言葉を、
再び水面へと返したまえ。
流れの始まりに還るそのとき、
世界の記憶は清められ、
新しき光が生まれん。
いざ、
滔々(とうとう)たる水の響きに身を委ね、
知恵の鮭を讃え奉る。
――水よ、
――風よ、
――月よ、
――そして知恵の鮭よ、
この祈りを、
天の彼方まで運びたまえ。
祝詞:知恵の鮭(ちえのさけ)の御魂に捧ぐ
「かしこみかしこみ申す」―古語・文語調で綴る、知恵の御魚の大神への祝詞。
流れを遡り時を越え、言葉を編む水の守護者。
古代祭祀の荘厳さを現代に蘇らせる、神前奏上形式の神聖な詩篇。
かしこみかしこみ申す。
天(あめ)の川の源(みなもと)に坐(ま)します、
知恵の御魚(みうお)の大神(おおかみ)、
その名を「知恵の鮭」と称へ奉る。
天地(あめつち)ひらけし古(いにしへ)の初めより、
水は心を映す鏡なりき。
その鏡の中に、ひとすじの光あり。
これすなはち、御魚の魂(たま)なり。
彼(か)の御魚、
流れを遡りては時を越え、
沈みては記憶を拾ひ、
また浮かびては言葉を編みたまふ。
おお、知恵の鮭の大神よ。
その鱗は月の文様を宿し、
その瞳は万世の理(ことわり)を映す。
願はくは、われらの迷ひを洗ひ清め、
忘却の淵に沈める言葉を、
再び水面(みなも)に浮かべたまへ。
この世の流れ静まり、
川の歌再び天に届かば、
光はめぐりて新しき暁(あかつき)を生まん。
かく祈り、かく称へ奉る。
水の御霊(みたま)よ、風の御息(みいき)よ、
月の御影(みかげ)よ、そして知恵の鮭の大神よ、
かしこみかしこみ、
恐(かしこ)み敬(うやま)ひ奉る。
あとがき
この詩集を綴り終えて、改めて思う。
知恵の鮭は、もしかすると私たち自身の姿なのかもしれない。
日々の喧騒の中で、私たちは多くのものを流し去る。
言葉も、想いも、記憶も。
しかし同時に、私たちは時折立ち止まり、流れを遡ろうとする。
忘れかけていた何かを拾い上げ、それを心に携えて、もう一度歩き始める。
還ること――それは後退ではなく、再生である。
水は常に動き続けるが、その本質は変わらない。
形を変え、場所を変えても、水は水であり続ける。
私たちもまた、多くを失い、多くを得ながらも、どこかで一貫した「自分」という流れを保っている。
この詩集に収められた数個の語りは、すべて同じ物語の異なる側面である。
神話として、祈りとして。
どの形式で語られようとも、その核にあるのは「記憶」と「還り」というテーマである。
現代において、私たちは情報の奔流の中を生きている。
日々、膨大な情報が流れ込み、流れ去っていく。
その中で、何を記憶し、何を忘れるべきか。
そして、何に還るべきか。
知恵の鮭は、その問いへの一つの答えを示してくれているように思う。
「知恵とは還ること、流れとは記憶のかたち」
この言葉を心に留め、読者のみなさまもまた、それぞれの川を遡る旅に出ていただければ幸いである。
静かな夜、水のせせらぎに耳を澄ませてみてください。
そこには、きっと知恵の鮭の声が響いているはずです。
そして、その声に導かれて、あなた自身の「星鱗」を見つけられますように。
水のほとりにて

さすが、鮭さま☆彡
知恵のあるリアリティーな詩作になりました。
※関連記事も合わせてご覧下さい。





コメント