静寂と言葉の創作論シリーズ no.5
『沈黙の筆記台』とその補章である「沈黙と声の倫理」(no.4)を読んだ方から、いくつかの問いをいただいた。
それらは表現の自由をめぐる議論の中で、最も誠実で、最も避けては通れない問いだった。
本稿は、その問いに応える形で書かれた対話篇である。
物語や随筆が情景と思索を通じて語ったことを、ここでは読者との対話として展開する。
答えは一つではない。
だが、問い続けることには意味がある。
問い:「沈黙も暴力だ」という言葉は、被害者の声を抑えるために使われてしまわないか?
とても本質的で、鋭い問いだ。
この指摘は、「表現の自由」論の中で最も誠実で避けては通れない部分を突いている。
結論から言えば——「沈黙も暴力」という言葉は、被害者の声を抑えるために使われるべきではない。
むしろその反対だ。
本来この表現は、「権力側・傍観者側が沈黙することの責任」を問う言葉なのだ。
二つの”沈黙”の違い
沈黙には、二種類ある。
一つは、権力・加害の側の沈黙だ。
「見て見ぬふり」「問題を隠す」「無関心でいる」——これは確かに暴力である。
沈黙が、被害を温存する。
構造を守る。
声を消す。
もう一つは、被害者が選ぶ沈黙/声を上げる自由だ。
これは暴力ではない。沈黙することも、語ることも、「自分を守るための選択」である。
それを尊重するのが、本当の「自由」だ。
声を出すことが再び傷つくことを意味する人もいる。
語る準備ができていない人もいる。
語ることで失うものがある人もいる。
その人たちに「沈黙は暴力だ」と言うことは、二重の暴力になる。
だから問うべきは、「誰の沈黙か」なのだ。
声を奪われた人に沈黙を強いるのは暴力だが、声を持つ立場の人が「見ない・聞かない」を選ぶのもまた暴力だ。
同じ「沈黙」という言葉でも、その意味は文脈によって正反対になる。
問い:「正義が人を傷つける」とは、声を上げた被害者を批判する意図か?
違う。
この表現は、「声を上げた被害者」を批判する意図ではない。
むしろ、“声を上げる側が、いつのまにか他者を裁く側に回ってしまう”危険を指している。
社会運動や正義の主張は本来、人を救うためのものだ。
だがその過程で「敵」とされた誰かを人格ごと否定してしまうことがある。
怒りの声が連帯を生み、やがて”敵”を必要とするようになるとき、そこに再び、沈黙させられる誰かが生まれる。
その構造を問うのが、「正義が人を傷つける」という言葉の本意だ。
つまり、被害者の声を奪うことではなく、「正義」を掲げる言葉が、いつの間にか新しい加害性を持つ危険への警鐘である。
正義は方向を誤ると、容易に”新しい暴力”になる。
それは被害者自身が加害者になるという意味ではない。
正義という概念そのものが、使われ方によって誰かを消してしまうという意味だ。
問い:では、沈黙と声の境界線はどこにあるのか?
それは、状況によって変わる。
だからこそ、唯一の判断基準は「その言葉(あるいは沈黙)は、誰を守り、誰を消すのか」という問いだけだ。
声を上げることが誰かを救うこともある。
沈黙が誰かを守ることもある。
だが同時に、声が誰かを傷つけることもあり、沈黙が誰かを見捨てることもある。
創作者として、また一人の人間として、私たちができるのは、その問いを常に手放さないことだけだ。
答えは出ない。
だが、問い続けることには意味がある。
問い:ならば、表現者は何を基準に言葉を選べばいいのか?
完璧な基準など、ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
それは、表現の自由とは「叫ぶ権利」だけでなく、「沈黙の権利」をも含む概念だということだ。
そしてその自由を行使するたび、私たちは必ず誰かの痛みを通り抜けてしまう。
だからこそ、表現者は慎重でなければならない。
だが、恐れて筆を置くこともまた、暴力の連鎖に沈黙という名の一石を投げ込むことになる。
つまり、何を選んでも、私たちは誰かを傷つける可能性から逃れられない。
それでも書く。
それでも語る。
なぜなら、言葉とは本来、誰かを裁くためではなく、誰かと共に考えるためのものだからだ。
沈黙も、声も、その目的が「人間への理解」に向かっている限り、それは創作として意味を持つ。
あとがき
この対話篇を書き終えた今も、答えは出ていない。
沈黙すべき時と、声を上げるべき時。
その境界は状況によって変わり、正解などどこにもない。
だが、『沈黙の筆記台』という物語が問うたことは、まさにこの「境界」だった。
沈黙=悪でもなく、声=正義でもない。
どちらの中にも暴力も誠実もあり得る。
それを曖昧なまま見つめる誠実さこそ、風刺文学の倫理だと私は信じている。
あなたが今、沈黙しているなら、それは守られるべき選択だ。
あなたが今、声を上げているなら、その勇気は尊重されるべきだ。
どちらであっても、あなたは間違っていない。
ただ、私たちは問い続ける。
誰のための沈黙か。
誰のための声か。
その問いを手放さない限り、言葉は暴力ではなく、対話になる。
表現者として。
人間として。
私たちはこれからも、その細い線の上を歩き続ける。
静寂と言葉の創作論シリーズ
- no.1: 言葉の重さについて
- no.2: 書くことの孤独
- no.3: 『沈黙の筆記台』(物語)
- no.4: 沈黙と声の倫理
- no.5: 沈黙と声の倫理――問いと応答(本稿)
次回作もどうぞお楽しみに。


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