『沈黙と声の倫理』:正義と真実の交差点

『沈黙と声の倫理』:正義と真実の交差点 創作・エッセイ

―― 静寂と言葉の創作論シリーズ no.6

「正しいことを言いたい」。
そう思った瞬間に、「誰かを傷つけてしまうかもしれない」という不安が生まれることがあります。
黙っていれば見過ごしたことになる気がして、声を上げれば強すぎる刃になる。
私たちは、そのあいだで立ち止まってしまいます。

この矛盾は、倫理・真実・表現という三つの力が一点に集まる場所で生じる。

この文章は、その迷いが生まれる場所――正義・真実・表現がぶつかる地点を、少しゆっくり見つめ直すためのものです。

 

「悪を指摘する声」が見落としやすいもの

ここで言いたいのは、「悪いことを指摘してはいけない」という話ではありません。
大切なのは、どう指摘するかです。

人の行動は、白か黒かでは分けられません。
他者の生の複雑さが単純化されるとき、私たちは別の何かを失っている。

間違いの裏には、知識の足りなさや、怖さ、貧困、愛情の歪み、不器用さ、うまく言葉にできなかった気持ちが重なっています。
でも私たちは、ときどき急いで答えを出そうとして、善と悪を一瞬で切り分けてしまう。

そのとき消えてしまうのが、「悪いことをした人も、同時に人間だった」という事実です。

悪を分かりやすくするほど、私たちは別の真実――人の複雑さ――を削ってしまうことがあります。
それが、「悪を指摘する声が、誰かの真実を奪う」という言い方の意味です。

 

a男・b女・cさんの話で考える

a男がb女に好意を向け、cさんがその行動を周囲に伝えたとします。
多くの場合、cさんは「正しいことをした人」に見えるでしょう。

けれど、もしそれが、

  • 事実をよく確かめないまま広まった話だったら
  • 未熟な好意をすべて「悪意」と決めつけていたら
  • 守るためというより、罰したい気持ちが強かったら

どうでしょう。
正義は別の顔を持ち始める。

このとき問題になるのは、a男が許されるかどうかではありません。
話す機会があったかどうかです。
語る場を失った瞬間、人は一つのラベルに閉じ込められます。
正義が、誰かを守る力から、誰かを固定する力へと変わる瞬間です。

要点は明確である。

悪を指摘すること自体が暴力なのではない。
意図と方法が、正義を暴力に変える。

 

「真実は一つ」なのに、意見が分かれる理由

「真実は一つだ」と聞くと、強くて揺るがないものを思い浮かべるかもしれません。
それは宇宙的・形而上学的な真理の水準では妥当だ。
しかし人間社会で私たちが扱う“真実”は、言語と認識を通してしか表せない
人が見たり語ったりできる真実は、いつも部分的です。

だから、

  • 真実そのものは一つ
  • けれど、見え方や語り方は人の数だけある

この二つは、同時に成り立ちます。

問題が起きるのは、自分の見ている一部を「これがすべてだ」と思ってしまうときです。
多層の現実を「唯一の正義」に還元する行為は、理解の放棄に等しい。

文学と哲学が大切にしてきたのは、その危うさです。
だから作家は、断言よりも逡巡を、裁きよりも理解を描いてきました。
その選択が、表現の倫理です。

 

創作へのヒント

風刺や批評を書くとき、悪を描かない必要はありません。
ただ、悪の中にある人間らしさを残しておくことが大切です。

そうすると、物語は「正しい人と悪い人の話」から、「人はなぜ間違えるのか」という問いへ変わります。
その変化こそが、読者の考える力を信じる、静かな表現です。

正義は必要だ。
しかし正義だけでは足りない。
言葉が他者を固定しないために、作家は沈黙と発話の境界に立ち続ける。
その緊張の中でのみ、真実は複数の相を保ったまま、読者の前に現れる。

 

おわりに

正義は声を求め、真実は沈黙を含む。
表現はそのあいだで揺れる。
交差点に立つ私たちができるのは、速度を落とし、複雑さを保持し、語る機会を奪わないことだ。
その慎みこそが、言葉を暴力から救う。

次回もお楽しみに。

 

azuki
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