沈黙と声の倫理――静寂と言葉の創作論シリーズ no.4

沈黙と声の倫理――静寂と言葉の創作論シリーズ no.4 Poetic Prose

表現者として生きることは、常に選択の連続である。

何を語り、何を語らないか。
誰のために声を上げ、誰のために沈黙を守るか。
その境界線はいつも曖昧で、時に自分自身をも傷つける。

本稿は、『沈黙の筆記台』という物語の背後にある思想的核心を、哲学的随筆として抽出したものである。
物語が情景と人物を通して語ったことを、ここでは言葉そのものとして提示する。

声を上げることが美徳とされる時代にあって、私たちはしばしば「沈黙=悪」という図式に囚われる。
だが本当にそうだろうか。
沈黙にも、声にも、それぞれに暴力と赦しが宿っている。

この随筆は、その両義性を見つめ直し、創作者として、また一人の人間として、どう言葉と向き合うべきかを問うものである。

答えは一つではない。
だからこそ、問い続けることに意味がある。

 

沈黙と声の倫理

「沈黙も暴力だ」

「沈黙も暴力だ」という言葉がある。
だがそれを口にするたび、私はいつも立ち止まる。
沈黙とは、本当に暴力なのだろうか。
あるいは、それは暴力の反響を恐れて選ばれた避難所ではないのか。

声を上げることが称賛される時代にあっても、
語る者すべてが自由であるとは限らない。
声を出すことが、再び傷つくことを意味する人もいる。
だからこそ、「声を上げない自由」もまた守られねばならない

一方で、権力や多数派が沈黙する時、
その沈黙は違う意味を持つ。
それは無関心という仮面をかぶった共犯であり、
他者の痛みを”見ないことで消す”行為だ。

つまり、沈黙には二種類ある。
一つは、自分を守るための沈黙
もう一つは、他人の苦痛を見ないための沈黙
前者は防御だが、後者は暴力だ。

 

「正義が人を傷つける」

「正義が人を傷つける」という言葉もまた、誤解されやすい。
それは被害者を咎めるための言葉ではない。
むしろ、「正義を掲げる者が、いつの間にか加害者の言葉をなぞってしまう」
その危うさを警告している。

正義は方向を誤ると、容易に”新しい暴力”になる。
怒りの声が連帯を生み、やがて”敵”を必要とするようになるとき、
そこに再び、沈黙させられる誰かが生まれる。

だから、沈黙と声のあいだに線を引くことはできない。
どちらにも暴力があり、どちらにも赦しがある。
それを見極めるための唯一の基準は、
「その言葉(あるいは沈黙)は、誰を守り、誰を消すのか」という問いだけだ。

 

表現の自由とは

表現の自由とは、叫ぶ権利だけでなく、
沈黙の権利をも含む概念である。
そしてその自由を行使するたび、
私たちは必ず誰かの痛みを通り抜けてしまう。
だからこそ、表現者は慎重でなければならない。
だが、恐れて筆を置くこともまた、
暴力の連鎖に沈黙という名の一石を投げ込むことになる。

沈黙と声。
二つの間に引かれた細い線の上を、
創作者は歩き続けるしかない。

それは苦しいが、美しい行為だ。
なぜなら、その歩みのひとつひとつが、
「人間とは何か」を考えるための言葉になるからだ。

 

あとがき

この随筆を書き終えた今も、答えは出ていない。

沈黙すべき時と、声を上げるべき時。
その境界は状況によって変わり、正解などどこにもない。
ただ一つ確かなのは、どちらを選んでも、
私たちは誰かを傷つける可能性から逃れられないということだ。

それでも書く。
それでも語る。

なぜなら、言葉とは本来、誰かを裁くためではなく、
誰かと共に考えるためのものだからだ。
沈黙も、声も、その目的が「人間への理解」に向かっている限り、
それは創作として意味を持つ。

『沈黙の筆記台』という物語は、声を失った者の物語だった。
だが同時に、声を持つ者の倫理を問う物語でもあった。
この補章は、その問いをより直接的に言語化したものである。

物語を読んだ方も、まだ読んでいない方も、
この随筆を通じて「自分自身の沈黙と声」について考えるきっかけを得ていただければ幸いである。

表現者として。
人間として。
私たちはこれからも、その細い線の上を歩き続ける。

静寂と言葉の創作論シリーズ
no.1:言葉の重さについて
no.2:書くことの孤独
no.3:『沈黙の筆記台』(物語)
no.4:『沈黙と声の倫理』(本稿)

次回作もどうぞお楽しみに。

 

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