「英雄の旅」をめぐる二つの読み方:キャンベル的モノミスと批評的視点

モノミス,英雄の旅 話題
「星の羅針盤」

はじめに

物語が英雄を讃える時、そこから排除された者たちの声はどこへ消えるのだろうか。

アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルの英雄の旅における「モノミス(単一の神話)」理論は、世界各地の神話や物語に共通する普遍的構造を明らかにし、「出発→試練→勝利→帰還」という円環的な旅路を通じて、英雄の成長と変容を描き出してきた。

この理論は神話研究や物語論において画期的な貢献をもたらし、現代のエンターテインメント作品にも深い影響を与えている。

しかし、英雄の光が眩しく輝くほど、その影は濃く深くなる。

現代の批評理論—フェミニズム批評、ポストコロニアル批評、記憶研究—は、キャンベル的な「英雄の旅」に対してまったく異なる視点を提供している。

それは「誰が英雄になれず、物語に残らなかったのか」「語られなかった声はなぜ沈黙を強いられたのか」という問いかけである。

本稿では、この二つのアプローチ—「英雄の光を描くキャンベル的視点」と「影に沈んだ者を照らす批評的視点」—を対比させることで、物語読解における多層性の重要性を論じる。

英雄の旅という円環の美しさを認識しつつ、同時にその円環から排除された者たちの存在を忘れない読み方こそが、現代における豊かな物語理解への道筋となるだろう。

 

キャンベル的モノミスと批評的視点の対比

基本的な観点の違い

キャンベルの「モノミス」理論は、英雄の成長・変容の道筋に焦点を当てる。

世界各地の神話に共通する構造として「出発 → 試練 → 勝利 → 帰還」という円環的な旅を描き出し、これを人類普遍の心的変容の象徴として捉える。

英雄は共同体を導く存在であり、その成功や救済、知恵の獲得が物語の中心となる。

一方、批評的視点は語られない者・犠牲になった者に注目する。

この視点では、物語の流れは「語られなかった声 → 忘却 → 歴史からの消失」として読み直される。

英雄は「特権的に選ばれた『語られる者』」として再定義され、「救済の影で沈黙したもの」の存在が問題化される。

 

問いかけの違い

キャンベル的アプローチが発する問いは:「英雄はどう成長し、人々を導くか?」である。

ここから神話学的・心理学的解釈が展開され、物語の普遍的構造が明らかにされる。

批評的アプローチが投げかける問いは:「誰が英雄になれず、物語に残らなかったか?」である。

この問いはフェミニズム批評、ポストコロニアル批評、記憶論などの展開を促し、物語の政治性を明らかにする。

 

視覚的な比喩で理解する

この違いを視覚的に表現するなら、キャンベル型は「英雄の旅」という円環(サイクル)を描く一方で、批評型は「その円環の外に落ちたもの」「円環に組み込まれず語られなかった者」を照らし出す。

つまり、「モノミス」は物語の「中心的な光」を描き出す枠組みだが、批評的視点を加えることで「その光に照らされず、影に沈んだ声」まで視野に入れることができる。

 

英雄の旅をめぐる二つの読み方の対比図

観点 キャンベル的モノミス(普遍構造) 批評的視点(沈黙と忘却を問う)
焦点 英雄の成長・変容の道筋 語られない者・犠牲になった者
物語の流れ 出発 → 試練 → 勝利 → 帰還 語られなかった声 → 忘却 → 歴史からの消失
英雄の意味 人類共通の心的変容を象徴する存在 特権的に選ばれた「語られる者」
物語の明るい側面 成功・救済・報酬・知恵の獲得 「救済の影で沈黙したもの」の存在
問い 「英雄はどう成長し、人々を導くか?」 「誰が英雄になれず、物語に残らなかったか?」
批判的展開 神話学・心理学的解釈 フェミニズム批評、ポストコロニアル批評、記憶論(アレゴリーとしての「忘れられた声」)
物語の政治性 普遍的で超文化的な構造とされる 物語が権力・文化的選別の道具であることを問う

 

「沈黙を強いられる者」という視点の位置づけ


英雄の足跡を感じさせる残影

ここで重要な点を確認しておきたい。

ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』(1949)そのものには、「英雄が語られるために無数の供犠が沈黙を強いられる」という視点は、基本的には含まれていない。

 

キャンベルの立場

キャンベルは世界各地の神話や物語に共通する「英雄の型」を抽出することを目的としていた。

英雄の成長・試練・帰還という普遍的な物語構造を分析するものであり、犠牲者や語られない者の存在を意識的に取り込んでいるわけではない。

確かに英雄の旅のなかには「試練の道」「最大の試練」「仲間や師の死」といった要素があり、英雄の物語を成立させるために「誰かの犠牲」がしばしば描かれる。

しかしそれらは物語上の機能として描かれるにとどまり、犠牲者が「語られない者」「沈黙を強いられる者」として中心的に考察されることはない。

 

批評的視点の展開

「英雄が語られる陰で数多の沈黙や犠牲がある」という批評的な観点は、モノミスそのものには含まれず、後世の批評理論によって加えられた解釈である。

現代の批評理論やポストコロニアル研究、ジェンダー研究などでは「語られる英雄の影に、無数の声なき犠牲者がいる」という観点が強調される。

例えば、「英雄の物語」とは勝者の歴史を神話化したものであり、そこに含まれない「沈黙を強いられた者たち」が常に存在する、という読み解きがなされる。

 

結論:光と影の相補的関係

この関係性を整理すると、以下のような構図が見えてくる:

  • キャンベル自身は「英雄の光」の構造を語った
  • 「その光の背後にある沈黙の闇」に焦点を当てるのは、後代の批評や再解釈

両者は対立するものではなく、相補的な関係にある。

キャンベル的モノミスが物語の「普遍的で超文化的な構造」を提示することで、批評的視点はその構造が「権力・文化的選別の道具」として機能していることを問うことができる。

物語を読み解く際、私たちは英雄の光と影の両方を見つめることで、より豊かで複層的な理解に到達できる。

英雄の旅という円環の美しさを認識しつつ、同時にその円環から排除された者たちの存在を忘れない。

これこそが現代における物語読解の重要な視点といえるだろう。

 

azuki
azuki

主役と脇役が物語を支え、地味な主役や光る脇役もカッコいいですが、現実味を帯びて多様に解釈されるのでしょう。

 

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