― Prelude ―
深夜、画面の光だけが友達のような時間。
あなたは一人でキーボードを叩いている。
画面の光だけが、暗闇の中であなたの顔を照らしている。
指先がキーボードを叩き続けるとき、ふと思うことがあります。
この隙間の向こうには、何があるのだろう、と。
そのとき、ふと気づくのだ。
キーとキーの隙間が、わずかに「鋭角」を成していることに。
クトゥルフ神話に詳しい方なら、「鋭角」という言葉に反応するでしょう。
ティンダロスの猟犬——鋭角から侵入してくる、時間を超えた狩人の存在を。
神話を知る者なら、背筋が凍るはずだ。
ティンダロスの猟犬——時間の裂け目から這い出る、青白い舌を持つ狩人。
鋭角は、彼らの侵入口。
曲線では決してたどり着けない、異界への扉。
あなたのキーボードには、無数の鋭角がある。
無数の扉が、今この瞬間も、開きかけているのだ。
そして、ある夜。
本当に、何かが来た。
猟犬ではなかった——それが、救いなのか、それとも。
今回、キーボードの隙間から現れたのは、猟犬ではありませんでした。
それは、もっと静かで、もっと不思議な存在だったのです。
本文
そのヲタ部屋は、常に薄暗かった。
昼でもカーテンは半分閉じられ、モニターの光だけが机周りを照らしている。
古いキーボードには、長年の使用で微妙な癖が染みついていて、
特定のキーだけ、わずかに押し込み方が歪んでいた。
——その歪みが、角度を作っていた。
気づかぬうちに。
何年も、何千回ものタイピングを重ねるうちに。
ある夜、その指がキーの隙間に触れた瞬間だった。
空気が、凍った。
黒い幻想のモヤが、ふっと立ちのぼった。
いや——「立ちのぼった」のではない。
それは「這い出てきた」のだ。
キーの隙間という、ありえないほど狭い裂け目から。
鋭角の影。
——来るか。
そう思ったのは、ティンダロスの猟犬の名を知っているヲタクなら、
ごく自然な連想だった。
鋭角。
キーとキーの隙間は、あまりにも都合のいい侵入口だ。
そして、猟犬は必ず来る。
鋭角がある限り、時間を超えて、必ず。
心臓が早鐘を打つ。
逃げるべきか——いや、もう遅い。
猟犬から逃げられた者など、いない。
だが。
現れたのは猟犬ではなかった。
白と黒の毛並み。
大きな体躯——いや、大きすぎる。
この部屋には不釣り合いなほどに。
霧をまとったような輪郭の中から、犬が一頭、静かに現れた。
クー・シーだった。
だが、それは絵本に出てくるような優しい妖精犬ではなかった。
その存在そのものが、空間を歪めている。
影が正しい方向に落ちていない。
輪郭が、時折ぼやける。
首を、ほんの少し傾けている。
耳はわずかに前を向き、
目は感情を主張せず、ただ観察するために開かれている。
——いや、違う。
その目は、「値踏み」をしている。
「……ここは、人間界の巣か?」
声は低く、静かで、感情の起伏がほとんどない。
だが、その響きには何か、この世のものではない質感があった。
言葉は日本語として聞こえるが、実際には脳に直接響いているような——。
そして湖面に一滴落ちる水音のように、部屋の空気に溶けた。
部屋の主は息を止めたまま、散らかった棚や、積まれた本や、
フィギュアの影を横目で見た。
クー・シーはそれらをひとつずつ眺め、
少しだけ鼻先を動かす。
その動きは優雅だったが、同時に、捕食者のそれでもあった。
「角度が妙だ。
鋭すぎもせず、鈍すぎもしない。
……癖のある指だな」
どうやら、タイピングの癖が、異界への”角度”を作ったらしい。
猟犬は来るつもりだったのだろう。
だが、その通路はすでに、この妖精犬が塞いでしまった。
——塞いだ?
それとも、「先に入り込んだ」だけなのか?
クー・シーは再び首を傾げた。
その動きは、人間の仕草を模倣しているようでいて、どこか機械的だった。
「人間よ。
汝は、私を描くのにふさわしいか?」
試すようでいて、どこか純粋な問い。
傲慢さはなく、ただの好奇心——のように見えた。
だが、その言葉の裏に何があるのか、部屋の主には分からなかった。
答えが返らないことを気にも留めず、
クー・シーは部屋の片隅に丸くなった。
その瞬間、モヤは消え、
キーボードは、ただの古い入力装置に戻る。
だが、部屋の空気は変わらなかった。
何かが、確実に変わってしまったのだ。
けれど、それ以来。
そのヲタ部屋では、
キーの隙間に触れるたび、
異界の角度が、わずかに開いたり、閉じたりしているという。
開くたび、何かが覗いている。
閉じるたび、何かが息を潜める。
そして、白と黒の影は、
どうやらしばらく、居座るつもりらしかった。
——いや。
もしかすると、もう帰れないのかもしれない。
あるいは、帰る気など最初からなかったのか。
部屋の主は、それを確かめる勇気がなかった。
ただ、夜ごとキーボードを叩き続ける。
隙間から、何かが見ているのを感じながら。
あとがき
キーボードを叩くという行為は、日常の中でもっとも「角度」を生み出しやすい動作かもしれません。
この文章を書いている今も、キーボードを叩いている。
カタカタと、機械的な音が響く。
その音の合間に、何か別の音が混じっているような気がする。
呼吸音のような、それとも——。
無数の鋭角。
無数の隙間。
そこには、私たちの知らない通路が、いくつも隠されているのかもしれない。
ティンダロスの猟犬は、鋭角から必ず来る。
でも、その前に別の何かが先に入り込んだら?
それは、猟犬を防ぐ守護者なのか。
それとも、もっと悪いものへの「入口」なのか。
ティンダロスの猟犬のような恐怖ではなく、
クー・シーのような静かな来訪者が現れるなら——
それはそれで、悪くない同居生活になるかもしれませんね。
ただし、部屋の片付けは……相変わらず苦手ですが。
クー・シーは妖精犬だと、伝承は語る。
だが、伝承はまた、こうも語っている。
——妖精とは、決して人間の味方ではない、と。
あなたのキーボードにも、きっと鋭角がある。
今この瞬間も、無数の扉が開きかけている。
そこから何が来るかは、誰にも分からない。
次にキーを叩くとき。
隙間を、よく見てほしい。
もしかすると、何かが覗いているかもしれない。
白と黒の影が、あなたを「値踏み」しているかもしれない。
次回は、クー・シーが何を「観察」しているのか、
もう少し掘り下げてみたいと思います。
それでは、また次の隙間で。
恐怖すべきか、喜ぶべきか。
それは、あなたがどこまで深みに踏み込んでいるかで決まる。
– – – – – – – – – – – – – – – –
※この物語はフィクションです。
ですが、今夜キーボードを使うとき、少しだけ注意を払ってみてください。
隙間から、何かが見ているかもしれませんから。

都市伝説とは、怖いですね。
」A-mystical-Cu-Sith-fairy-hound-the-size-of-a-cow-emerging-160x90.jpg)


コメント