短編小説『沈黙の筆記台』

短編小説『沈黙の筆記台』,Short story "The Silent Writing Table" 創作・エッセイ

言葉を扱う者は、いつも二つの罪を背負っている。

一つは、沈黙を破る罪
もう一つは、沈黙したまま何も語らない罪

創作とは、この矛盾の中で生まれる。
書くことは破壊であり、同時に祈りでもある。
誰かを傷つけるかもしれないと知りながら、それでも造られる言葉がある。

この作品は、そんな創作者の葛藤を描いた短編小説です。
表現の自由と社会の圧力。
言葉の暴力と沈黙の暴力。
どちらが正しいのかという問いには、答えがありません。

けれど、その「答えのなさ」の中でペンを握る人々がいます。
この物語は、彼らへの静かな応援歌として書かれました。

読み終えたあと、あなたの中の「言葉」が少しだけ震えることを願って。

 

導入部

午前四時。
窓の外は、まだ世界の輪郭を思い出せずにいる。
薄い青の中に、鳥の声が一つ、ため息のように落ちた。

机の上には、昨日書きかけの原稿用紙。
書き直した跡ばかりが重なり、言葉の墓場のようだ。

男はペン先を持ち上げる。
光を映さないインクの黒が、わずかにゆらいでいた。

書くという行為は、いつも破壊から始まる。
語られなかった感情を、形に変えることで壊してしまう。
それでも、人は書く。

沈黙の中で、心の奥が小さく鳴った。
──ぽたり。

一滴のインクが、紙の上に落ちた。
それは偶然ではなかった。
沈黙が限界を超え、言葉へ変わった瞬間だった。

その一滴を見つめながら、男は思った。
「書くことは、生きることの逆説だ。
だが、書かなければ、生きている意味さえ揺らぐ。」

インクが広がり、紙に黒い花を咲かせていく。
世界の始まりのように、静かで、不可逆だった。

 

中盤・風刺篇

書き出された最初の一文は、 まるで静脈を切るように、紙の上に広がった。

 「人は、言葉に殺される。」

その一行を見つめて、男はしばらく動けなかった。
それは告発でも、懺悔でもなく、ただの事実のように見えた。

数年前、彼の書いた風刺小説が炎上した。
政治を笑ったわけでも、宗教を冒涜したわけでもない。
ただ「誰もが口を閉ざす空気」について書いただけだった。

だが、沈黙を壊す者ほど、早く沈黙を強いられる。
「自由に書け」と言いながら、 社会は”正しい沈黙”を求めている。

SNSでは匿名の群れが牙をむいた。
出版社は火消しに追われ、男の名前は検索され、消された。
批判と倫理の境界線は、炎の中で溶けて消えた。

あのとき、彼はペンを置いた。
そして、何も書かないことを「平和」と呼ぶ人々の中で、 言葉の意味が静かに腐っていくのを見ていた。

今、机の上の白い紙は彼に問いかけている。
「あなたはまた書くのか?
沈黙を破る代わりに、また誰かを傷つけるかもしれないのに。」

男は小さく笑った。
「傷つける言葉しか、世界を動かせないのだ。」

ペン先が震える。
インクがまた一滴、落ちた。
それは血ではなく、信念の色だった。

 

あとがき

この作品を書いている間、私自身が何度も筆を止めました。

「これは誰かを傷つけるだろうか」
「この表現は、誤解されるだろうか」
「沈黙していた方が、安全ではないか」

創作者は常に、言葉の刃を研ぐ者であり、同時にその刃に怯える者でもあります。
表現の自由を叫びながら、表現の責任に押しつぶされそうになる。
この矛盾は、決して解消されません。

けれど、だからこそ書くのです。

沈黙が正義とされる時代に、あえて声を上げること。
誰もが「正しさ」を振りかざす中で、「誠実さ」を選ぶこと。
それが、創作者に残された最後の尊厳だと信じています。

この作品の主人公は、答えを出しません。
彼はただ、ペンを握り続けることを選びます。

それが希望なのか、絶望なのか。
読者であるあなたが、決めてください。

言葉は凶器にも、祈りにもなります。
あなたの中の言葉が、どちらに育つかは、あなた次第です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

―― 静寂と言葉の創作論シリーズより

 

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