言葉は、時に刃となる。
SNSが世界を覆い、誰もが発信者となった時代──私たちは「語ること」の重さを忘れかけているのかもしれない。
だが同時に、沈黙もまた暴力となりうる。
声を上げるべき時に黙すること。
それは時に、不正義への加担を意味する。
この作品は、そんな現代における「創作者の葛藤」を描いた試みです。
書くことと書かないこと。
語ることと沈黙すること。
その間で揺れ動く作家の内面を、静謐な筆致で追いかけました。
これは風刺でもあり、祈りでもあります。
読者の皆様が、ご自身の「言葉との関係」を見つめ直すきっかけになれば幸いです。
『書けない夜の果て』
夜は、何も書けない。
言葉が出てこないのではなく、言葉がすべて嘘に見えるのだ。
書こうとするたび、心の奥で誰かが囁く。
「それは本当に、おまえの言葉か?」
思考は渦を巻き、ペンはただ紙の上で眠っている。
世界は相変わらず騒がしく、誰もが正しさを叫んでいる。
だが、その正しさの中に、静けさはひとつもない。
男はペンを置いた。
そして初めて、「書けない」ということ自体が、
沈黙ではなく思考の最終形なのだと気づく。
書けない夜の果てには、
何もない──そう思っていた。
だが実際には、何も「決めつけられない」場所がある。
そこでは、言葉がまだ世界を持たない。
感情がまだ形を持たない。
その曖昧な闇の中に、
初めて”本当の自由”があった。
人は、語ることで世界を作る。
だが、語らないことでしか見えない真実もある。
夜明け前、空がわずかに青くなる。
男はもうペンを握らない。
ただ、掌の中に残るその重みだけを感じている。
「書くことは、生きること。
だが、書けないことは、在ることだ。」
その瞬間、夜がやわらかくほどけた。
何も書かれていない紙が、
まるで世界そのもののように、静かに光っていた。
短編小説『沈黙の筆記台』―終章
夜が更けるにつれ、窓の外の光景が墨に沈んでいった。
街は眠り、スクリーンの向こうだけが騒がしい。
誰かが誰かを正そうとして、また誰かを切り捨てる。
言葉はもはや、刃の形をしていた。
男は静かにペンを置いた。
書くことが世界を救わないと、もう知っていた。
だが、書かないことが世界を癒すわけでもない。
沈黙は、しばしば暴力の味方をする。
声を上げる者を孤立させ、
何も語らぬことを「成熟」と呼ぶ。
ペンの隣で、紙が小さく揺れた。
風ではない。
そこに、まだ書かれていない言葉たちの気配があった。
男はゆっくりと万年筆を取り上げる。
インクの中には、自分の過去と後悔と、
それでも書きたいという、愚かで透明な希望が混じっている。
「書くことは、赦しだ」と、彼は呟いた。
「誰かをではなく、自分を赦すための。」
ペン先が紙に触れる。
今度の文字は、批判でも主張でもない。
ただ、世界に対する小さな祈りのようだった。
「それでも、人は言葉を持つ。」
その瞬間、インクの一滴が光に滲んだ。
まるで夜の深淵が、やっと涙をこぼしたように。
男は微笑んだ。
沈黙もまた、言葉の一部だと知りながら。
哲学的考察:創作における沈黙の意味
この作品で描かれているのは、創作者にとって最も本質的な問いです。
「書く」とは何か?
それは世界を構築する行為です。
言葉によって、私たちは現実を切り取り、意味を与え、他者と共有可能な形にします。
「書けない」とは何か?
それは世界を受け入れる行為です。
まだ言語化されていない感覚、形にならない思考、定義を拒む真実──それらと向き合う時間です。
つまり:
- 創作とは意志であり、沈黙とは覚悟
- どちらも「生の証明」であり、どちらか一方が欠けても、人は真に表現することはできない
現代社会では「発信すること」が過剰に称賛されています。
しかし、すべての思考を即座に言語化し、すべての感情を即座に表明することが、本当に健全なのでしょうか。
沈黙は逃避ではなく、思索の場所。
言葉は攻撃ではなく、到達のための試み。
この二つの均衡を保つことこそが、成熟した創作者の姿勢です。
あとがき
「書けない夜」──それは創作者にとって、最も静かで、最も深い闘いの時間です。
この作品を書きながら、私自身も何度も筆を止めました。
言葉の暴力性と、沈黙の暴力性。
その両方を知りながら、それでも書くことを選ぶ理由は何か。
たどり着いた答えは、「祈り」でした。
書くことは、戦うことではなく、祈ること。
誰かを変えるためではなく、自分自身を赦すため。
そして、言葉がまだ届かない誰かへの、小さな希望を灯すため。
この作品が、あなたの「書けない夜」に寄り添えたなら。
あるいは、あなたの「書かずにはいられない朝」の背中を押せたなら。
それ以上の喜びはありません。
言葉の痛みと誠実さの両方を理解している、すべての創作者へ。
沈黙は逃避ではなく、思索の場所。
言葉は攻撃ではなく、到達のための試み。
そういう作家の姿勢が、次の時代の倫理をつくるのだと、私は信じています。
執筆者より
この作品は、現代社会における言葉と沈黙の関係性を探求する「静寂と言葉の創作論シリーズ」の第3作です。
読者の皆様からのご感想やご意見をお待ちしております。
※興味を持たれた方は、シリーズ作をご覧ください。



-120x68.webp)

コメント