塔の上の沈黙 ――真実と妄念の翻訳者として

塔の上の沈黙 ――真実と妄念の翻訳者として 創作・エッセイ

本記事における「バベルの塔」の扱いについて

本記事で言及する「バベルの塔」は、
特定の宗教的信仰や教義を前提としたものではありません。

ここでは、
人間がそれぞれの立場や思い込みから「自分の真実」を語り、
共通の理解が失われていく状態
を説明するための、
文化史上の比喩表現として用いています。

この比喩は、現代思想や社会批評の文脈においても、
しばしば参照されてきました。

バベルの塔の物語は、
「神の罰」を論じるためのものではなく、
同じ言葉を使っていても、
人々が異なる前提や認識を持つことで、
対話が成立しなくなる現象
を象徴的に描いたものとして
広く引用されてきたものです。

本記事では、
この比喩を通じて、
現代社会における認識のズレや
「真実」が分裂して見える構造を考察します。

 

「真実」と「妄念」の区別 ― 思想史的な枠組み

人は皆、「真実を語っている」と思って口を開く。
だが、互いの言葉はほとんど噛み合わない。
それでも誰も沈黙しない。
沈黙する者より、叫ぶ者のほうが「正しい」とされる時代だからだ。

気がつけば、私たちはすでに塔の中にいる。
名を呼ぶなら、バベルの塔。
神話の遺物ではなく、
SNSと評論と正義感で再建された、現代の建築物である。

現代社会で言う「真実」や「事実」は、
観測・言語・報道・記録などを通して成立する。
しかしそれらはすべて、
条件付きの理解であり、
言葉というフィルターを通した
相対的な真実にすぎない。

 

哲学的誤解:人間社会の「真実」

この塔では、誰もが上を目指す。
より高い視座、より正しい立場、より鋭い断定。
だが奇妙なことに、
高く登るほど、他者の言葉は聞こえなくなる。
聞こえるのは、自分の声が反響したものだけだ。

私たちは「真実」という同じ言葉を使いながら、
まったく異なる層の話をしている。
ある者は事実を語り、
ある者は信念を語り、
ある者は恐怖を、
ある者は傷を、
そしてある者は――
自分でも気づかぬ思い込みを語っている。

それは単なる虚言ではない。
切り取られた理解であり、
限られた立場から見れば、
それなりに整合性を持つ「部分的な真実」でもある。

だからこそ、厄介で、
だからこそ人は、
それを「真実」と信じて疑わない。

思想史や哲学の文脈では、

  • 普遍的な原理として語られる「真理」
  • 社会制度の中で扱われる「事実」
  • 個人の内面で形成される「認識」

が、同じ「真実」という言葉で
混同されがちだと指摘されてきた。

それらを区別せずに語ると、
同じ言葉を使いながら、
まったく異なる高さの話をすることになる。
その状態こそが、
比喩としての「バベルの塔」である。

 

「バベルの塔」―真実を語る者の傲慢

人間の認識が歪みやすいことは、
宗教に限らず、哲学や心理学の領域でも
古くから繰り返し指摘されてきた。

思想史や宗教思想の文脈で使われてきた
いわゆる「心を清めよ」という表現も、
感情を消し去れという意味ではない。

それはむしろ、
自分の見ている世界が、
いかに主観に左右されやすいかを自覚せよ

という警告に近い。

多くの思想体系は、
永遠・普遍とされる概念と、
個人の執着や誤認から生まれる認識
区別しようとしてきた。

後者は、単なる誤りではない。
部分的には正しく見えるからこそ、
人はそれを絶対化してしまう。

人は自分の見た世界を
「真実」だと信じて語る。
しかしそこに自己防衛や感情の歪みが混ざれば、
それは事実の全体ではなく、
切り取られた認識へと変わる。

思想や宗教が繰り返し問題にしてきたのは、
真実そのものよりも、
人間がいかに容易に
自分の認識を絶対化してしまうか

という点だったのだろう。

しかし現代では、
その警告は「価値観の押し付け」として退けられる。
代わりに残ったのは、
「私の真実を否定するな」という無数の叫び声だ。

それらは互いに衝突し、
共通言語を失ったまま、
塔をさらに高くしていく。

バベルの悲劇は、
言葉が分かれたことではない。
沈黙を忘れたことにある。

思想の歴史を振り返ると、
真理と呼ばれるものは、
必ずしも雄弁ではなかった。
語られすぎる「真実」は、
しばしば思い込みに近い場所にある。

それでも人は語り続ける。
沈黙が、自分の不安を
露わにしてしまうからだ。

 

作家の使命 ― バベルの中の翻訳者として

作家とは何者か。
塔を破壊する革命家ではない。
頂上を占拠する預言者でもない。

作家とは、
この混線した言語空間の中で、
「それは真実か、それとも思い込みか」と
静かに問いを差し出す存在だ。

風刺作家や批評家、
哲学的な表現者は、
混沌の中で「塔を崩す人」ではなく、
異なる言語をつなぐ翻訳者であるべきだろう。

真実を一つに統合するのではなく、
それぞれの真実が、
どのような構造で語られているのかを描き出す。

思い込みが思い込みとして語られ、
普遍的な原理が、
沈黙の奥でかすかに照らされるようにする。

それが、
表現者としての作家にしかできない、
「バベル以後」の倫理的な仕事である。

答えを与えない翻訳者。
断罪しない解説者。
沈黙の位置を示す案内人。

このエッセイは、
真実を提示するために書かれてはいない。
思い込みを暴くためのものでもない。

ただ、
私たちがどの高さで、
どの言語を使って語っているのか。

その足場を、
そっと照らすために書かれている。

塔の上には、まだ沈黙が残っている。
耳を澄ませば、
そこにしか届かない声がある。

静寂と言葉の創作論シリーズ、
次回もお楽しみに。

 

azuki
azuki

全体と思い込み。
すべてが必ずしも虚偽というわけではございませんが、
間違って偏ってしまった場合を想定しました。

 

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