ヴィクトリア朝の医療と階級制度|出産死亡率と女性医師から読む『黒執事』考察!!

前記事(女医・産科医療)と続いて、
今回は階級制度を軸に、「語られない女性たち」という視点で考察します。

医療は「平等」ではなかった

19世紀イギリス、とりわけヴィクトリア朝の医療は、近代医学の発展期として語られることが多い。
しかしその恩恵は、すべての人に平等に届いていたわけではない。

医療へのアクセスは、明確に「階級」によって分断されていた。
そしてその分断は、とりわけ女性の身体を沈黙へと追いやっていた。

本稿では、ヴィクトリア朝の医療制度と階級構造を整理したうえで、
『黒執事』における「語られない女性たち」の位置を読み解いていく。

 

ヴィクトリア朝の医療制度と階級構造

医療は「市場」であり「慈善」だった

19世紀後半のイギリスには、国民皆保険のような制度は存在しなかった。
医療は基本的に私的契約であり、診療費を支払える者だけが医師の往診や高度な治療を受けられた。

医療機関は大きく分けて三層に分かれていた。

  • 上流・中産階級:自宅での往診、私立病院
  • 労働者階級:チャリティー病院、救貧医療
  • 最下層:非正規医療、民間療法、事実上の無医療状態

つまり、医療そのものが階級の反映だったのである。

 

医療は階級によって分断されていた ―― 数字で見る現実

19世紀後半のイギリスには国民医療制度は存在せず、医療は私費または慈善に依存していた。

医師数と階級格差

  • 1841年:約33,339人(資格の有無を問わない)
  • 1851年時点でイングランドとウェールズの登録医師数:約14,000人(20歳以上など、特定のカテゴリー)
    18,000人前後(全年齢)、うち女性の医療実務家として記録されていたのはわずか 13名
    (国勢調査)
  • 1856年:10,220人『医師名簿』に掲載、内科医、外科医、歯科医、薬剤師など何らかの資格を有する、しかし英国の大学で医学の学位取得者はわずか4%

医師資格の正式な記録は非常に限られていました。

  • 1881年:約19,000人
  • 1901年:約33,000人
    (General Medical Council 登録統計)
    ※GMC(英国医療総合評議会)は1858年創設
    資格を持つ医師とそうでない者(無資格者)を区別し、一般市民を保護することを目的に設立されました。

しかしこの増加は都市部・中産階級以上に集中していた。
ロンドンの裕福な地区では往診医が存在した一方、貧民街では1人の医師が数千人を担当することもあった。

 

女性の身体と階級の二重構造

上流階級の女性 ―― 守られた存在、しかし沈黙の中に

上流階級の女性は、医療的には恵まれていた。
だがその身体は「家名を継ぐための身体」として管理される側面も持っていた。

妊娠・出産は家の存続に直結する問題であり、失敗や流産は公に語られない。
「慎み(Victorian Modesty)」の文化のもと、女性の身体は名誉と結びつき、沈黙を強いられる。

レイチェル・ファントムハイヴのような立場の女性は、医療を受けることはできても、「語る自由」を持っていたとは限らない。

 

出産死亡率 ―― 「命がけの出来事」の実態

19世紀後半のイングランドにおける母体死亡率は、

  • およそ 4~5人/1000出生
    (現代英国は約12.80/100,000)
    ※現代の正式な統計単位は 「100,000出生(maternities)あたり」 で表されます。

つまり、出産は現在の200倍以上の死亡リスクを伴っていた。

主な死因:

  • 産褥熱(感染症)
  • 出血
  • 難産
  • 器具使用による損傷

特に病院での出産は感染リスクが高く、むしろ自宅出産の方が安全な場合もあった。

 

労働者階級の女性 ―― 医療の外側に置かれた身体

一方、下層階級の女性にとって、医療は遠い存在だった。
出産は自宅で行われ、助産婦の経験と運に委ねられることも多い。
望まれない妊娠や堕胎は、違法でありながら水面下で行われ、命を落とす事例も少なくなかった。

ここでは、身体は「守られるもの」ではなく、「消費されるもの」に近い。

 

労働者階級の医療アクセス

慈善病院の実態

ロンドンの主要チャリティー病院では、患者は無料または低額で診療を受けられたが、

  • 入院には紹介状が必要
  • 病床数は需要に対して不足
  • 長期治療は困難

1860年代ロンドンでは、人口約300万人(1861年時点で約280万人)に対し、病院病床数は約10,000床未満と推定されている。
つまり、都市人口の0.3%程度しか同時に入院できなかった計算になる。

※1870年代末ロンドンの12の一般病院の病床数は約3,326床、30の専門病院の病床数は約2,900床主要病院だけで合計約6,000床強でした。
これにワークハウス附属診療所(劣悪な環境)を加えても、1861年から1911年の間に病床数は3倍になったという記録があることから、1860年代初頭の総数はさらに少なかったと考えられます。
ワークハウス病床を含めると、数千床が加わる可能性があるが、劣悪な施設であり、「病院病床」と同一視するかは議論がある。

 

階級と女性の二重格差(構造整理)

要素 上流階級女性 労働者階級女性
医療アクセス 往診可能 慈善病院・非正規医療
出産場所 自宅 自宅(医療介入少)
記録の残存 比較的残る ほぼ残らない
堕胎リスク 名誉問題 生存問題

この表が示す通り、女性は階級によって異なる形で沈黙させられていた。

 

堕胎と違法医療 ―― 統計に現れない死亡

1861年「対人犯罪法」により堕胎が(例外なく)違法と明確化・強化された。
(1803年から既に違法、1861年法は整理・強化したもの)
しかし記録に残らない非公式処置は広範に存在していた。

1880年代の検視記録では、若年女性の死亡原因に「敗血症」「子宮感染」と記載される事例が一定数見られる。
これらの中には、違法堕胎の合併症が含まれていた可能性が指摘されている。

公式統計に現れない死亡は、実数より多かったと考えられている。

 

『黒執事』における階級と女性の沈黙

黒執事

『黒執事』は、ヴィクトリア朝を舞台にしながら、階級制度を精緻に描く作品である。
伯爵家、使用人、裏社会、貧民街——それぞれが明確に分断されている。

その中で、女性たちはどう描かれているだろうか。

  • レイチェル:上流階級の母
  • マダム・レッド:女医という例外的存在
  • 娼館や貧民街の女性たち:名前を持たない存在

共通するのは、「身体が物語の中心にありながら、語り手ではない」という点である。

 

女性医師の数 ―― いかに「例外」だったか

  • 1870年代:英国全体で登録女性医師は数名規模
  • 1881年:女性医師 約25人前後
  • 1891年:約130人
  • 1901年:約212人

(Medical Register 集計)

人口3000万人規模の国家で、女性医師は0.5%未満だった。
この希少性は、マダム・レッドの存在がいかに例外的であったかを示している。

人口
イングランド・ウェールズ 1851年:約1,800万人、スコットランドは約300万人
英国全体(英・スコ・アイル)1901年:約4,150万人へと倍増
※「3000万人規模」が当てはまるのは主に19世紀末(1890年代〜1900年代)のイングランド・ウェールズに限られます。

 

『黒執事』との接続

作品内では、

  • 伯爵家という医療アクセスの最上層
  • 貧民街という最下層
  • 娼館という医療の「空白地帯」

が共存している。

これは歴史的現実と非常に整合的である。

マダム・レッドは、この分断構造を横断する存在として描かれている。
上流階級に属しながら、下層女性の身体の現実を目撃する立場。

彼女の破綻は、個人の狂気というよりも、
階級医療構造の歪みを一点に凝縮した結果として読める。

 

語られない女性たち

物語の中心は常にシエルであり、契約であり、復讐である。
しかしその背後で、

  • 出産する身体
  • 売られる身体
  • 治療される身体
  • 失われる身体

が存在している。

ヴィクトリア朝の医療と階級制度は、女性の身体を「管理対象」として扱う構造を持っていた。
『黒執事』はそれを直接告発する作品ではないが、その構造を忠実に再現している。

だからこそ、読者は物語の隙間に沈黙を感じる。

 

医療と権力 ―― 誰が「救われる」のか

医療は中立ではない。
誰が救われ、誰が救われないかは、階級によって決まる。

そして女性の場合、それはさらに複雑化する。

  • 上流階級の女性は「守られる」が、語れない
  • 下層階級の女性は「語る以前に救われない」

この二重構造が、ヴィクトリア朝の現実だった。

 

結論:物語の背後にある構造

『黒執事』は、悪魔と契約する少年の物語である。
しかしその舞台は、階級制度と医療格差に満ちたヴィクトリア朝である。

語られない女性たちの存在は、物語を暗く、そして重くしている。
彼女たちは主役ではないが、世界観を支える影である。

統計が示すのは、ヴィクトリア朝の医療が:

  • 階級で分断され
  • 女性の身体を沈黙させ
  • 出産を高リスクにし
  • 堕胎を地下化し
  • 女医を例外化していた

という事実である。

『黒執事』はこれを明言しない。
だがその構造は、背景として正確に敷かれている。

語られない女性たちは、創作上の装置ではない。
彼女たちは、統計の背後に存在した無数の実在の女性たちの影なのである。

マダム・レッドの悲劇も、レイチェルの出産も、名もなき女性たちの死も、
すべては「医療と階級」という現実の構造の上に成り立っている。

その構造を意識したとき、『黒執事』は単なるゴシック作品ではなく、
ヴィクトリア朝という時代そのものを映す鏡として立ち上がる。

 

azuki
azuki

当時の階級による差と出産のリスクとは凄いですね。

 

 

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