韻律か、記譜か ――最古の音楽が教えてくれる「歌われる前の音楽史」

韻律か、記譜か ――最古の音楽が教えてくれる「歌われる前の音楽史」 創作・エッセイ
月明かりのウガリット遺跡

「音楽は楽譜に書かれてこそ残る」
私たちは、ついそう思いがちです。

しかし、世界最古の記譜音楽とされるフルリの賛歌(紀元前14世紀)を見ていくと、
そこには現代的な意味での「楽譜」以前に、
音楽を成立させていた別の原理が浮かび上がってきます。

それが――韻律(リズムと言葉の構造)です。

本記事では、
「韻律 vs 記譜」という対立軸から、
古代詠唱における音楽の本質を、できるだけ分かりやすく紐解いていきます。

 

世界最古の「楽譜」は、なぜ読めないのか

紀元前14世紀頃、現在のシリアにあった古代都市国家ウガリット(𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt, BC.1450-1200頃)。
この地から、楔形文字で刻まれた粘土板が発見されました。

その中の一つが、
フルリ人による女神ニッカルへの賛歌(通称:フルリ賛歌第6番/h.6)です。
1950年代に発掘され、1950–60年代に研究・公表されました。

この粘土板には、

  • 歌詞(フルリ語)
  • 音程名
  • 竪琴(リラ)の調弦に関する指示

が記されており、
現存する最古の「ほぼ完全な形で残る記譜音楽」とされています。

9弦の竪琴に関する調弦体系が示されている可能性が高く、
それは後期バビロニア音楽理論に基づく音程体系を示す。

……にもかかわらず。

  • 実際には、演奏方法は一つに定まらない
  • 学者や演奏家によって、再現音源が大きく異なる

なぜでしょうか?

 

ウガリットとフルリ賛歌の基本情報

  • 年代(紀元前14世紀頃)
  • 場所(ラス・シャムラ/現シリア, アラビア語: رأس شمرة, ラテン文字転写: Ras Shamrah
  • 楔形文字の粘土板
  • フルリ賛歌第6番(h.6)が最重要資料

  • フルリ語自体が不完全にしか理解されていない
  • 粘土板の欠片が失われていて小さな欠落がある
  • 地元のウガリット方言で書かれていた
  • 呼称
    フルリ人の歌(The Hurrian songs)
    フルリ人の賛歌(Hurrian Hymns)
    ニッカルへのフルリ人の賛歌(the Hurrian Hymn to Nikkal)
    フルリ人の宗教賛歌(the Hurrian cult hymn)
    「神へのザルズィーの祈り”a zaluzi-prayer to the gods”」
    「h.6」
    作者不明
  • Nikkal
    果樹園の女神、月の神の妻
  • zaluzi
    「賛歌」「賛美」「儀礼的な歌」

 

記譜は「音楽そのもの」ではなかった

現代の私たちは、楽譜をこう捉えています。

楽譜 = 音楽の設計図
楽譜通りに演奏すれば、音楽が再現される

しかし、フルリ賛歌の記譜は、
この発想とはまったく違う役割を持っていました。

 

フルリ賛歌の記譜の特徴

  • 音の長さ(リズム)が書かれていない
  • 強弱・アーティキュレーションの指示がない
  • 歌い回しは一切記されていない

フルリ賛歌h.6の「韻律=音楽構造そのもの」

  • 音節反復
  • 行構造
  • 表裏の配置
    は、歌唱のリズム・記憶・儀礼的循環を支える仕組み

つまり、
「どう歌うか」は記されていないのです。

では、何が音楽を成立させていたのでしょうか。

 

音楽を支えていたのは「韻律」だった

ここで重要になるのが、韻律です。

 

韻律とは?

  • 言葉のリズム
  • 音節の区切り
  • 繰り返し構造
  • アクセントの配置

フルリ賛歌h.6の歌詞構造を見ると、
非常に興味深い特徴が見られます。

 

注目すべき構造

  • 粘土板の裏面の行末音節
  • 表面の次の行の冒頭で繰り返される

この構造について学者たちは、

  • 単なる書記上の都合
  • 複数の粘土板をまたぐための工夫
  • リフレイン(反復句)

など、さまざまな解釈を提示しています。
※リフレイン:詩や音楽においては繰り返す音節

しかし、どの立場に立っても共通するのは――

  • 反復される音節が、歌唱のリズムを規定している
  • 言葉そのものが音楽構造になっている

という点です。

研究史

  • ラロッシュ(Emmanuel Laroche 仏)、言語学者・ヒッタイト学者(1955 / 1968)
  •  キルマー(Anne Draffkorn Kilmer 米, アッシリア学者)、ギュターボック(Hans Gustav Güterbock 独, ヒッタイト学者)、ギユマン(Marcelle Duchesne-Guillemin ベルギー, 音楽学者):1970年代-80年代
  • 表裏の記述構造・反復音節(リフレイン説 vs 連続性説)
    ラロッシュ:表裏の記述構造、別の粘土板へ連続性を持たせる手法に類似
    ギュターボックとキルマー:リフレイン説
    ギユマン:「螺旋状の配置」という指摘、バビロニアの文書には見られない配置

 

「韻律 vs 記譜」という対立軸

ここで、対立軸を整理してみましょう。

 

記譜中心の音楽(後世・西洋的)

  • 音高・長さ・強弱が明示される
  • 楽譜が音楽を支配する
  • 演奏は再現行為

 

韻律中心の音楽(古代詠唱)

  • 記譜は補助的メモ
  • 言葉の構造が音楽を支配する
  • 演奏は記憶と儀礼の中で更新される

フルリ賛歌は、
この二つの世界の境界線上にあります。

記譜は存在する。
しかし、音楽の核は――韻律なのです。

 

古代に「アーティキュレーション」はなかったのか?

バロック音楽では、
アーティキュレーション(音の切れ目・つながり)は不可欠です。

しかし古代音楽には、

  • スラーも
  • スタッカートも
  • 強弱記号も

存在しません。

では、音楽は無表情だったのでしょうか?

答えは NO

古代では、

  • 言語のアクセント
  • 音節の長短
  • 詩の反復構造

これらが、アーティキュレーションの役割を果たしていました
記号的アーティキュレーションよりも、言語の韻律・反復構造が音楽構造を規定していた。

  • 「どう歌うか」は、
  • 「どう書くか」ではなく
  • 「どう語るか」によって決まっていたのです。

 

なぜ宗教儀式と結びついたのか

フルリ賛歌は、宗教儀式で用いられたと考えられています。

これは偶然ではありません。

  • 韻律は記憶に残りやすい
  • 反復は共同体の同調を生む
  • 記譜に依存しないため、口伝で継承できる

儀礼・祈り・詠唱において、
韻律中心の音楽は、きわめて合理的だったのです。

 

最古の音楽が示すもの

フルリの賛歌が私たちに教えてくれるのは、

音楽は、
まず「歌われるもの」であり、
あとから「書かれるもの」になった

という、音楽史の原点です。

記譜は音楽を保存しました。
しかし、音楽を生かしていたのは韻律でした。

 

おわりに

「韻律 vs 記譜」という視点から見ると、
フルリ賛歌は単なる「最古の楽譜」ではなく、

音楽が文字に支配される前の、最後の記憶
のようにも見えてきます。

楽譜を読む前に、
人はまず――声で世界を編んでいたのです。

 

azuki
azuki

現存する最古の歌は、祈りからでした。

 

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