Ⅲ マクノートン覚書編
「最有力容疑者」はどう作られたか
シリーズの中核、史料批判編。
ドルイットは、単なる噂によって疑われた人物ではありません。
1894年、ロンドン警視庁の幹部だったメルヴィル・マクノートン(Melville Macnaghten)が作成した覚書の中で、ドルイットは3人の容疑者の一人として挙げられました。
しかも、その覚書には、ドルイットについて「犯人だったのではないか」とするかなり強い見解が記されています。
しかし、その一方で、マクノートンの記述には年齢や職業などの明らかな誤りもあります。
前回の記事では、ドルイットの解雇と死という「事実」を追いました。
第3回で扱うのは、この人物を「最有力容疑者」に押し上げた一つの文書――
1894年、ロンドン警視庁の幹部メルヴィル・マクノートンが作成した覚書です。
しかしこの覚書、史料としてそのまま信頼してよいものなのでしょうか。
記述の中身を検証していきます。
覚書はなぜ書かれたのか
マクノートンの経歴
Sir Melville Leslie Macnaghten
- 1889年6月、Assistant Chief Constable (CID) としてロンドン警視庁に入る(それ以前は1887〜88年頃にも打診されていましたが、当時の警視総監チャールズ・ウォレンの反対で一度は不採用になっています)
- 1890年12月、Chief Constable(刑事部本部長)に昇進
- 1894年、1894年の覚書を書いた時点では、この Chief Constable の地位にありました
- 1903年、Assistant Commissioner (CID)(刑事担当・警視副総監級)に昇進、1913年まで務める
ロンドン警視庁の組織上、位置づけはこうなります。
- Commissioner(警視総監)── 警視庁全体のトップ
- Assistant Commissioner (Crime/CID)── 刑事部門を統括する次官級ポスト
- Chief Constable (CID)── 刑事部の本部長
- Assistant Chief Constable (CID)── 本部長を補佐する副本部長格
1894年2月23日付、メルヴィル・マクノートンの覚書
“Macnaghten memorandum”
ドルイットを特に有名な容疑者にしたのが、メルヴィル・マクノートンの1894年の覚書です。
メルヴィル・マクノートンがロンドン警視庁に入ったのは1889年のことです。
つまり彼は、1888年の一連の殺人事件を直接捜査した人物ではありません。
- 1888年の切り裂きジャック事件の際には警察官ではなかったものの、1889年から1891年にかけてのホワイトチャペルの売春婦殺害事件の捜査に積極的に関わっていた。
彼が1891年までホワイトチャペル事件に実務で関わり続けていたという追加情報も、先ほど参照したマクノートンの経歴資料と整合しています。
1894年、警視庁の幹部となっていたマクノートンは、一つの覚書を作成します。
1894年の覚書執筆時点でのマクノートンは、すでにAssistant Chief Constableではなく、一段上のChief Constable(刑事部本部長)でした。
きっかけは、当時新聞で「切り裂きジャックはトーマス・カットブッシュという人物だ」と報じられたことでした。
マクノートンはこの説を否定するため、警察内部の記録として、より可能性の高いと考える容疑者を書き記したのです。
つまりこの覚書は、最初から「犯人を特定するため」ではなく、「別の説を退けるため」に書かれた文書でした。
この成立の経緯自体が、覚書の性格を考えるうえで見落とせないポイントです。
覚書はトマス・カットブッシュ犯人説を否定する目的で書かれた文書であること、
そして警察が実際にマークしていた人物を記録するために書かれました。
「カットブッシュよりはこの3人のほうがまだ可能性がある」という文脈です。
3人の容疑者
覚書には、次の3人が挙げられています。
- モンタギュー・ジョン・ドルイット
- アーロン・コスミンスキー
- マイケル・オストログ
その具体的な記述内容は以下の通りです。
ドルイット
Montague John Druitt
人物像
弁護士であり、学校の副校長も務めていたオックスフォード大学卒の紳士。
覚書での主な記述
マクノートンは彼を「41歳ほどの医師で、家柄も良い男」と記されています。
最後の犠牲者とされメアリー・ジェーン・ケリーが殺害された「ミラーズ・コート事件」の直後に姿を消し、その約1ヶ月後にテムズ川で遺体となって発見された人物として書かれています。
さらにマクノートンは、「個人的な情報」として、ドルイットの家族も彼を犯人ではないかと疑っていた、と記しています。
警察の疑い
マクノートン自身の「最も有力な本命容疑者」として挙げられています。
「sexually insane」という記述と、その根拠が示されていないこと
ドルイットの死後にピタリと連続殺人が止まったこと、また彼が「性的な狂気(あるいは精神異常)」を抱えており、親族からも疑われていたという情報が根拠とされました。
これが、ドルイットが「警察関係者から有力視された容疑者」として現在まで語られる、最大の根拠になっています。
年齢と職業の誤り
誤記の検証
「私的情報により、家族も彼を疑っていた」──伝聞の伝聞という構造
ところが、この記述には見過ごせない誤りがあります。
マクノートンはドルイットを「41歳ほどの医師」としていますが、実際のドルイットは、
- 1888年当時31歳
- 職業は法廷弁護士、および学校の助教師
でした。
年齢も、職業も、実際とは異なっています。
この誤りがどこから生まれたのかは分かっていません。
記憶違いだったのか、情報源そのものに誤りがあったのか、あるいは別の人物の情報と混同されたのか。
現在も確定していません。
はっきりしているのは、「警察幹部が書いた」という事実だけでは、その記述内容の正確さは保証されないということです。
コスミンスキーの記述にも誤りが
Aaron Kosminski
人物像
ホワイトチャペル地区に住んでいた、ポーランド系ユダヤ人の貧しい理髪師。
覚書での主な記述
覚書には「女性、特に娼婦に対して激しい憎悪を抱き、強い殺人衝動を持っていた」と記述されています。
長年の精神錯乱(当時の表現では自慰行為の耽溺によるものとされた)の末、覚書上では1889年3月頃に精神病院へ収容されたとされています。
警察の疑い
現場周辺の地理に極めて詳しかったこと、目撃証言の人物像と一致していたことから、当時の捜査首脳陣(アンダーソンやスワンソンなど)から最も現場レベルで疑われていた男です。
これはドルイットの年齢誤記だけの問題ではありません。
覚書には、コスミンスキーについて「1889年3月頃に精神病院へ収容された」という記述があります。
しかし史実としては、コスミンスキーが実際に精神病院(コルニー・ハッチ)へ収容されたのは1891年2月のことです。
マクノートンはここでも、2年近くずれた日付を書いていたことになります。
一つの覚書の中に、少なくとも二つの明確な事実誤認が見つかる。
この点は、覚書全体の性格を考えるうえで重要です。
マクノートンの記述は、警察の公式な捜査記録というより、記憶や伝聞に基づいてまとめられた、誤りを含みうる文書だったと見るべきでしょう。
マイケル・オストログ
Michael Ostrog
人物像
ロシア生まれの詐欺師、泥棒。
複数の偽名と経歴を使い分けており、「元ロシア海軍外科医」という肩書きもそうした自己演出の一つでした。
覚書での最も弱い記述
数多くの偽名を使い、何年もの間、精神病院や刑務所を出入りしていた極めて素行の悪い人物として記載されています。
覚書の原文(草稿版)にはこうあります。
「この男は女性に対して常習的に残虐だったと言われており、長期間にわたり外科用の刃物などの器具を持ち歩いていたことで知られていた」(大意)
犯罪歴は窃盗や詐欺が中心ですが、過去に「女性に対する残虐性」を示した記録があり、さらに外科用の器具を持ち歩いていたことから容疑者リストに加えられました。
ただし、この記述自体が、史実としては裏付けが取れていません。
複数の研究者(Philip Sugdenなど)がオストログの実際の犯罪記録を調べていますが、
- 彼の犯罪歴は窃盗・詐欺が中心で、暴力事件はほとんど記録がない
- 唯一確認できる暴力に関する記録は、1873年に警察官に拳銃を向けて逮捕された一件のみ
- 「女性を常習的に虐待していた」ことを示す記録は見つかっていない
- 「外科用の器具を持ち歩いていた」ことを示す記録も見つかっていない
警察の疑い
3人の中では最も嫌疑が薄い人物とされています。
覚書での実際の記述は「素行が最悪の詐欺師・窃盗犯で、殺人事件当時の所在が確認できなかった」という内容のみ。
マクノートンは女性への残虐性と凶器携帯を主張したが、これを裏付ける記録は見つかっていない。
犯行当時に彼がどこにいたのかという明確な証拠(ホワイトチャペルにいた事実)が警察側にもなく、あくまで「怪しい経歴を持つ危険人物」としてのノミネートでした。
なお後年の調査では、事件当時フランスの刑務所に収監されていたことが判明しており、事実上容疑から外されています。
つまり構造としては、ドルイットの「41歳の医師」という誤記や、コスミンスキーの収容年の誤記と同じです。
マクノートンは覚書にそう書いたが、その記述自体の裏付けが取れない、というパターンがオストログでも繰り返されているわけです。
マクノートンはこの3人について、「彼らは(当時報道されていた容疑者よりも)遥かに犯人としてもっともらしい背景を持っている」と締めくくっています。
「最有力容疑者」という言葉の危うさ
結論:「警察幹部が最有力と書いた」ことと「犯人だった」ことは別
記憶や伝聞に基づく、誤りの多い文書。
ドルイット=疑問視されつつ死ぬまで有力扱い
コスミンスキー=現場の捜査陣が最も疑った
オストログ=後にアリバイが判明
ドルイットを紹介する際、しばしば「切り裂きジャックの最有力容疑者」という表現が使われます。
しかし、ここまで見てきた事情を踏まえると、この言葉には注意が必要です。
マクノートンの覚書は、ドルイットを含む3人を容疑者として挙げていますが、その記述には年齢・職業・日付といった基本的な事実関係の誤りが含まれています。
また、マクノートン自身は1888年の事件を直接捜査した人物ではありません。
したがって、
という表現のほうが、この史料の性格を正確に伝えられます。
「警察が犯人と断定した人物」ではない、という点は明確にしておく必要があります。
次回は、ドルイット本人の行動記録に目を向けます。
事件があった日、彼は実際にどこで何をしていたのか。
クリケットの試合記録という、意外な角度からの検証です。

星灯の一言❈📜
一枚の覚書が、ひとりの男を「最有力容疑者」として後世に残しました。
けれど、その紙の中には、年齢も、職業も、日付も、いくつもの食い違いがありました。
記録されていることと、事実であることは、同じではありません。
ドルイットという人物を追うほど、その境界が見えてきます。
次回はいよいよ、紙の記録ではなく、彼自身の「その日の足跡」をたどってみましょう。



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