Ⅰ 人物像・経歴編
ドルイットとは何者だったのか──「怪しい男」ではなかった男の経歴
1888年、ロンドンのホワイトチャペルを震撼させた連続殺人事件。
「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」の正体は、今もなお確定していません。
このシリーズでは、後世の研究で繰り返し名前が挙げられてきた容疑者の一人、モンタギュー・ジョン・ドルイットを取り上げます。
第1回では、彼がどのような経歴を持つ人物だったのかを見ていきます。
結論から言えば、世間がイメージする「怪しい人物」とは、かなり距離のある経歴の持ち主でした。
ドーセット州に生まれた青年
モンタギュー・ジョン・ドルイット(Montague John Druitt)は、1857年8月15日、イングランド南部ドーセット州のウィンボーン・ミンスターで生まれました。
父ウィリアム・ドルイットは、この地域で開業する外科医でした。
裕福とはいかないまでも、地方の名士に連なる家庭で育ったことになります。
少年時代のドルイットは、名門ウィンチェスター校に進みます。
ここで彼は学業だけでなく、スポーツの才能を発揮し始めました。
とりわけクリケットにおいて、その素質は際立っていたと伝えられています。
オックスフォードでの学び、そして法廷弁護士へ
ウィンチェスター校を卒業した後、ドルイットはオックスフォード大学ニュー・カレッジに進学します。
当時のオックスフォードは、イギリス社会の中枢を担う人材を輩出する場所でした。
ドルイットもまた、その環境の中で法律を学びます。
法廷弁護士(barrister)資格取得
1885年、ドルイットは法廷弁護士(バリスター)としての資格を取得しました。
法廷での弁論を担う、専門職としての地位を得たことになります。
これだけを見れば、ドルイットは順調にキャリアを積んでいく若きエリートの一人でした。
法律家でありながら、教師でもあった
ブラックヒースの寄宿学校での教師業
興味深いのは、法廷弁護士の資格を得た後も、ドルイットが別の仕事を続けていたことです。
彼は、ロンドン南東部ブラックヒース(Blackheath)のイーリオット・プレイス9番地(9 Eliot Place)にあった寄宿学校「ミスター・ヴァレンタインの学校」(George Valentine’s boarding school、正式名称はEliot Place School)で、助教師(アシスタント・マスター)として働いていました。
校長はジョージ・ヴァレンタインという人物です。
ドルイットは1880年頃からこの学校に住み込みで勤め、法律家としての仕事と並行して、教育の現場にも身を置いていました。
現代の感覚では兼業のように見えますが、当時のイギリスでは、法廷弁護士としての仕事が軌道に乗るまでの期間、教職などで生計を立てる若手法律家は珍しくありませんでした。
ドルイットのキャリアも、その一例だったと考えられます。
若き日のベンジャミン・ディズレーリも通っていたという説について
学校史の系譜を丁寧に追ったCasebookの詳細なJack the Ripperの学校専門論考(dst-valentine.html)によると、事実関係は次の通りです。
- ディズレーリが少年時代に通ったのは、イーリオット・プレイス2〜3番地にあった、ジョン・ポティケアリ牧師の学校(1805年頃〜)。
これがのちのSt Piran’s Schoolの起源です。 - ドルイットが勤務したのは、同じイーリオット・プレイスの9番地にあった、ジョージ・ヴァレンタインの学校。
この建物は1831年にポティケアリ牧師の息子が別に取得したもので、1873年頃にヴァレンタインが買い取った、ディズレーリの学校とは別の建物・別の系譜の学校です。
ここでの「graduates(卒業生)」は、「ヴァレンタインの学校(イーリオット・プレイス・スクール)自体の卒業生」という意味ではなく、「大学卒業生(オックスフォードやケンブリッジを出た学位保持者)」という意味です。
当時のイギリスの学校紹介文で「graduate masters」という言い方は、「大卒の資格を持つ教師陣」を指す定型表現で、実際、論考の直前の段落でも「Valentine could afford to… attract graduate teachers(大卒の教師を雇う)」という同じ用法が出てきます。
Casebookの記事にはほかにも有用な情報があります。
- ドルイットは1880年秋、オックスフォードのニュー・カレッジを出てすぐにこの学校で教え始めたと推定されること
- 同僚の助教師がガーンジー島出身のマーク・マンという人物だったこと
- ドルイットが法廷弁護士の仕事(1885年〜)と教職を掛け持ちしていた理由について、著者は「ブラックヒースのスポーツ人脈が理由」という説を紹介しつつ、別の可能性(生徒への性的な関心があったのではという著者自身の推測)にも触れていること──ただしこれは著者の推測であり、確定した史料ではありません
熱心なスポーツマンという顔
ドルイットのもう一つの顔が、クリケット選手としてのものです。
彼はブラックヒース・クリケット・クラブをはじめ、複数のクラブでプレーし、MCC(メリルボーン・クリケット・クラブ)の会員にもなっていました。
- Marylebone Cricket Club(MCC)
イギリス・ロンドンに本拠地を置く、世界で最も影響力と歴史のあるクリケットクラブです。
以前はクリケットの統括団体であり、1788年以降は競技規則であるクリケット法を管理するなど、現在も強い影響力を保持している。
当時のクリケットは、単なる娯楽ではなく、紳士階級の社会的なつながりを保つ重要な場でもありました。
法廷弁護士、教師、そしてクリケット選手。
この3つの顔を同時に持っていたことからも、ドルイットが当時のロンドン社会において、相応に恵まれた教育と人脈を持つ人物だったことがうかがえます。
「怪しい人物」ではなかったドルイット
「中上流階級の紳士」という人物像──下層の犯罪者像とのギャップ
ここまで見てきた経歴を整理すると、次のようになります。
- ドーセット州の外科医の家庭に生まれる
- 名門ウィンチェスター校からオックスフォード大学ニュー・カレッジへ
- 1885年、法廷弁護士の資格を取得
- ブラックヒースの寄宿学校で助教師を兼務
- 熱心なクリケット選手として複数のクラブに所属
切り裂きジャック事件というと、貧困や社会の底辺で生きる人物が容疑者としてイメージされがちです。
しかしドルイットの経歴は、その像とは大きく異なります。
法律・教育・スポーツという、当時の紳士階級を象徴する複数の社会的活動を持つ青年。
それが、切り裂きジャック事件当時のモンタギュー・ジョン・ドルイットという人物でした。
では、なぜこのような人物が、後に有力な容疑者として名前を挙げられることになったのでしょうか。
次回は、1888年11月から12月にかけてドルイットの身に起きた出来事――彼の人生を大きく変えることになる解雇と、その後の死について見ていきます。

星灯✭✨
ドルイットの人生をたどると、そこに浮かび上がるのは「怪しい男」ではなく、法律を学び、教壇に立ち、クリケットを楽しんだ一人の紳士でした。
だからこそ――後に「切り裂きジャック」と結びつけられたとき、その落差は大きかったのかもしれません。
人は、後から貼られた名前だけでは語れない。
次回は、そんなドルイットの人生が大きく揺らぐ1888年末へ進みます。





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