第2回:舟の形——円形・立方体・箱型
前回は、『アトラ・ハシース』、『ギルガメシュ』、『創世記』という三つのテキストの素性を確認しました。
今回は、舟そのものの「形」に焦点を当てます。
物語が進むにつれて、舟の形状は「丸い実用的な船」から「神聖な立方体」、そして「合理的な長方形」へと変化しています。
- 範囲
『アトラ・ハシース』の円形舟/『ギルガメシュ』の立方体/「ノア」の箱舟
「船から箱へ」まで - 役割
舟の形そのものの比較。
この回だけで「なぜ形が違うのか」という視覚的な面白さが完結します。
アトラ・ハシースの舟――巨大な「円」
三つの物語を並べたとき、最も意外なのが最初の舟です。
『アトラ・ハシース』に関係する「Ark Tablet」などの資料から、舟は円形の平面を持つ舟として理解されています。
つまり、現代人が想像する「箱舟」とはまったく違います。
巨大な円形の舟です。
近年の粘土板の研究
「Ark Tablet(方舟の粘土板)」は、紀元前1750年頃(古バビロニア王国期)に作られたとされる、円形の方舟の建造指示が記された古代メソポタミアの楔形文字タブレットです。
大英博物館の中東副館長アーヴィング・フィンケル(Irving Finkel)は、本格的に入手・翻訳を完了した。
洪水物語のタブレット自体は1985年に一度フィンケルの目に触れており、2009年、正式に翻訳を完了した。
研究では、粘土板に現れる「円」を意味する語から、これを古代メソポタミアで知られていたクッファ(quffa)と呼ばれる円形舟・コラクルと関連づけています。
円形舟の面積「1フィールド=約3,600平方メートル」、壁の高さ「20フィート(約6メートル)」で、パーム繊維のロープ、木製のリブ、支柱と瀝青(ビチューメン /アスファルト)で防水加工をするよう詳細に指示されています。
アメリカの公共放送局PBSの解説でも、この舟がメソポタミアの河川で使われていた円形舟を思わせるものとして紹介されています。
- クファ(巨大な円形の編み舟)
イラクの湿地帯で伝統的に使われていた丸い舟を巨大化させたもので、木の枝を編み、ピッチ(瀝青)で固めた最もリアルな構造です。
これは非常に重要です。
なぜなら、ここでは神話上の舟が、現実のメソポタミアの水上文化とかなり近い姿を持っているからです。
ティグリス川やユーフラテス川の流域では、円形の舟が実際に使われていました。
木材を組み合わせ、植物素材などを用いて構造を作り、瀝青によって防水する。
そうした技術的イメージが、巨大な洪水神話の舟へと拡大されたと考えることができます。
つまり最初の舟は、
「神話的であると同時に、生活世界に非常に近い舟」
です。
「円形の舟」は何を意味しているのか
円形の舟には、船首も船尾もありません。
前も後ろもない。
どの方向から見ても同じです。
これは洪水神話において、意外に重要な意味を持ちます。
普通の船は、目的地へ向かって進みます。
しかし洪水の舟は、目的地へ航海するための船ではありません。
洪水の上で、
ただ浮かぶ。
それが役割です。
どこかへ向かう必要はありません。
水が世界を覆っているなら、方向そのものが失われているからです。
だからこそ、円形の舟は非常に象徴的です。
「進む舟」ではなく、「浮かび続ける舟」。
そこには、洪水神話の原初的な感覚が表れているのかもしれません。
ギルガメシュの舟――巨大な立方体
ところが『ギルガメシュ叙事詩』になると、舟は突然、異様な形になります。
一辺120キュビト。
長さも幅も高さも同じ。
つまり、
完全な立方体です。
さらに内部には六つの床が設けられ、全体として七層の構造となり、内部は九つの区画に分けられています。
複雑な構造です。
※標準版第11書板の該当箇所(ジョージ訳など)と整合しています。
舟には大量の瀝青や油が使われ、実際に建造物のような詳細な構造が記述されています。
これは現実の船として考えると、かなり奇妙です。
普通の船は、横長です。
水の上を進むには、細長い形のほうが合理的だからです。
しかし、この舟は違う。
高さまで120キュビト。
横幅も120キュビト。
まるで、
巨大な浮かぶ建築物
です。
cubit / 羅: cubitusクビトゥス(約43〜53cm)
キュビットは、古代エジプトやメソポタミアなどで使われた古い長さの単位です。
人の「ひじから中指の先端まで」の長さが基準になっています。
地域や時代によって多少の違いがあり、一般的には約44cmから52cmほどとして計算されます。
紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされます。
バビロニアの都市Nippurで出土した、紀元前2650年頃の銅製の棒(「シュメール・キュビット」、資料によって517〜518.6mmの幅で報告)は、現存する中では世界で最も古い長さの標準とされている。
このニップール・キュビット棒(銅合金の棒)の年代は、複数の学術資料で一貫して紀元前2650年頃とされています。
舟なのに「神殿」のように見える
『ギルガメシュ叙事詩』の舟には、さらに興味深い特徴があります。
それは、舟の構造が単なる輸送手段というより、建築物を思わせることです。
七層。
多数の区画。
巨大な正方形。
そして天地をつなぐような高さ。
この舟は、「どこかへ行く船」というより、
洪水によって世界が消滅したとき、その中に保存される小さな世界
のようにも見えます。
宗教的なシンボル(神殿)としての意味合い
外側は水。
内部には人間、動物、食料、財物。
つまり舟の内部には、洪水以前の世界が圧縮されています。
その意味で、立方体という形は非常に象徴的です。
円形の舟が「水に浮かぶ舟」だとすれば、立方体の舟は、
「水上に浮かぶ世界」
になっています。
そしてノアの箱舟は「細長い箱」になる
細長い「長方形(箱型)」
『創世記』のノアの箱舟は、さらに別の形をしています。
長さ300キュビト。
幅50キュビト。
高さ30キュビト。
(約133m×22m×13m)
※一般的なキュビト換算(約44.4cm)に基づいております。
三階建てです。
- 『創世記』第6章第14節
材料は「ゴフェルの木(いとすぎ)」を使い、内部に小部屋を設け、水漏れを防ぐために内側と外側に「アスファルト(ピッチ)」を塗るよう指示されています。 - 『創世記』第6章第16節
上部から1キュビトのところに「明かり取りの窓」を造り、横口に「戸」を設け、内部を「3階建て」にするよう指示されています。
ここでは、舟の形がはっきりと長方形の箱型になっています。
立方体ではありません。
しかし、普通の船とも少し違います。
船首や船尾の形、帆、舵などについて詳しく描かれているわけではありません。
つまりノアの「箱舟」は、航海するための船というより、
巨大な浮かぶ箱
として描かれています。
これは非常に面白いところです。
舟は「船」から「箱」へ
『アトラ・ハシース』
→ 円形の舟
『ギルガメシュ』
→ 立方体の舟
『創世記』
→ 長方形の箱
と並べると、洪水から生命を保存する容器のイメージが変化していることが分かります。
ここで注目したいのが、聖書の「箱舟」という日本語です。
原語のヘブライ語は tebah で、一般的な船舶を意味する語とは異なります。
「箱・方舟・籠」を意味する tebah(テーヴァ)
תֵּבָה(母音記号あり)
תיבה(母音記号なし)
(右から): Tav(ת)+ Yod(י)+ Bet(ב)+ He(ה)
主な意味: 箱、ケース、ノアの方舟(Tevat Noach)、モーセを流したパピルスの籠。
棺桶、長方形の立方体 。
現代では音楽の「小節」や、書かれた「単語」という意味でも使われます。
つまり、ノアの舟は「船長が操縦して航海する船」というより、
神によって水の上に浮かべられる保存容器
という性格を持っています。
これは物語全体の意味とも一致します。
ノアは、自分で航路を選ぶわけではありません。
どこへ行くかを決めるのもノアではない。
洪水が終わるまで、箱舟の中にいる。
そして最後に、神が定めた時が来ると外へ出る。
したがって、箱舟の本質は、
「目的地へ運ぶ船」ではなく、「命を保存する器」
です。
舟の形が変われば、次に気になるのは、洪水の終わりを確かめるために放たれる「鳥」です。
「次回:鳥の物語へ」

星灯🌙❇
円は水に浮かび、立方体は世界を包み、箱は生命を次の世界へ運ぶ。
――洪水の舟は、その形を変えながら「生き残る器」へと姿を変えていったのかもしれません。

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