沈黙の倫理・後編|第三者に必要な境界線とは

沈黙の倫理・後編|第三者に必要な境界線とは alt案: 石柱の間に降り注ぐ金色の光の中、星と格子の印が円環に包まれて輝き、水面に反射する絵画 創作・エッセイ
その静けさは、選ばれたものか。選ばされたものか。
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距離と沈黙の倫理(後編)
「中立」は「傍観」ではない
介入しないことと、見放すことの違い

三人の視点――誤解を解こうとする第三者、距離を保つ当事者、そして沈黙する人。

前編では、その距離と沈黙を「尊重すべきもの」として描いた。
けれども、その言葉には見落としがあった。

距離の尊重と、傷を見なかったことにする傍観は、時に驚くほど似た顔をしている。

後編では、その境界線がどこにあるのかを、もう一歩踏み込んで考える。

「距離を尊重すること」を無条件の美徳として終わらせず、そこに例外があることを明示する構成にしました。

 

三人の視点

alt案: 幻想的な残光が、輪郭を持たずに静かに漂う絵画「残光が漂う光」

この物語には、三人の人物を置くことができる。

一人目は、「誤解を解こうとする第三者」

善意を持っている。

誰かを傷つけたいわけではない。
ただ、二人の間にある誤解を放置できない。

二人目は、「距離を保つ当事者」

説明することもできる。
しかし、あえて説明しない。

その沈黙には、自分の人生を自分で管理したいという意思がある。

そして三人目は、「沈黙する人」

何かを知っている。
何かを感じている。

けれども、それを言葉にしない。

三人とも、それぞれの正しさを持っている。

だからこそ、この物語には簡単な善悪を置かない。

第三者も悪人ではない。
距離を取る当事者も冷たい人間ではない。
沈黙する人も、弱い人間ではない。

それぞれが、自分の境界線を守ろうとしている。

 

最後に残る問い

水面に滲む白光、蝶の輪郭がわずかに残る alt案: 静謐な白光が、水面に滲みながら揺らめく絵画「水面に滲む白光」

物語の最後で、第三者はようやく気づく。

自分が「誤解を解くため」に話していたことが、実は当事者の沈黙を奪っていたのではないか、と。

そこで第三者は、初めて黙る。

何かを説明するのではなく、
何も説明しない。

何かを決めるのではなく、
本人が決める時間を待つ。

その沈黙によって、初めて三人の間に適切な距離が生まれる。

それは、劇的な和解ではない。
握手し合うことでもない。
誤解がすべて解けることでもない。

ただ、

「あなたの沈黙を、私の都合のいい意味に解釈しない」

という約束だけが残る。

それで十分なのかもしれない。

 

「中立」は、「傍観」の別名ではない

霧の奥の星と格子 霧の奥に現れる星と格子の印 alt案: 深い霧の奥に、星と格子状の印が静かに現れる絵画霧の奥に現れる星と格子の印

人間関係における境界線の尊重

けれども、ここで立ち止まらなければならないことがある。

この物語がここまで描いてきた沈黙は、対等な人間同士の間にある沈黙だった。

説明しないことが、相手への攻撃にならない関係。
距離を取ることが、誰かを危険にさらさない関係。

単なる誤解や私的な人間関係の距離。

そういう場所でだけ、「介入しない」という選択は、静かな敬意になりうる。

 

不法行為・人権侵害が発生している場面での第三者の責任

しかし、すべての沈黙が、その場所で起きているとは限らない。

そこに、対等でない関係が存在するとき。
そこに、暴力や脅迫、嫌がらせ、差別が存在するとき。

「当事者同士の問題だから」と、第三者が一歩引くことは、
敬意ではなく、放棄になる。

その沈黙は、誰かを守るための沈黙ではない。

ただ、自分が関わらずに済ませるための沈黙にすぎない。

 

「距離を尊重すること」と「不法行為を放置すること」は別

だから、本当は二つの物語がある。

一つは、「誤解を解こうとする第三者」が、
当事者の意思を無視して踏み込んでしまう物語。

もう一つは、「これは当事者同士の問題だ」と告げた別の第三者が、
実際には、誰かが独りで傷つき続けるのを、見なかったことにしてしまう物語。

どちらも、同じ場所から生まれている。

その二つの失敗の間に、本当の第三者の倫理がある。

私人間の単なる対立・誤解
→ 第三者が無理に介入しないことには倫理的意味がある。

本人が距離を置く意思を示している
→ その意思を尊重する必要がある。

第三者が事実を知っている、あるいは職務上対応すべき立場にある
→ 「中立」を装って沈黙することが、結果的に被害を固定化する場合がある。

現実に権利侵害や違法行為が発生している場合には、
第三者が「沈黙」や「不介入」を選ぶこと自体が、状況によっては問題になり得ます。

 

「中立」と「傍観」は同じではない。

「自分は関わるべきではない」

という一つの言葉の、二つの使い方から。

第三者に必要なのは、介入するか、しないかという二択ではない

支援と、支配。
保護と、行きすぎた介入。

その境界線のどちらに自分が立っているのかを、
そのつど、確かめ続けることだ。

「権利侵害が起きているとき、第三者はどのように介入すれば、
被害者の意思を奪わずに問題に向き合えるのか」

 

おわりに――沈黙できる社会へ、そして沈黙させない社会へ

円環に包まれた印 円環の中で神聖に輝く印 alt案: 霧の奥で、星と格子の印が光の円に包まれ静かに輝く絵画円環の中で神聖に輝く印

人間関係において、本当に難しいのは「何を言うか」ではない。

もしかすると、

「いつ言わないか」

を判断することなのだ。

誰かを助けたいと思ったとき。
誤解を解きたいと思ったとき。
真実を明らかにしたいと思ったとき。

その前に、一度だけ考えてみる。

「これは本当に、その人のためなのか」

それとも、

「自分が安心したいだけなのか」。

距離を取る人には、距離を取る権利がある。
沈黙する人には、沈黙する権利がある。

けれども、その権利は、対等な関係の上にしか立たない。

そこに力の差があるとき。
そこに、声を上げられない誰かがいるとき。

「距離を尊重する」という言葉は、
そのまま「見なかったことにする」という言葉に、
すり替わってしまう。

すべての沈黙を破る必要はない。
すべての誤解を解く必要もない。

けれど、すべての沈黙を、同じ沈黙として扱ってはいけない。

人権侵害が起きている場面で、第三者が「どちらにも肩入れしない」という姿勢を取ることが、必ずしも公正とは限りません。

被害を受けている人と、侵害している側との間には、そもそも対等ではない関係が存在するからです。

一方で、第三者が「被害者のため」と称して本人の意思を無視し、勝手に説明したり、行動を決めたりするなら、それもまた別の問題になります。

人と人との間には、言葉では埋めないほうがよい空白もある。

その空白を尊重すること。
その距離を侵さないこと。
その沈黙を勝手に解釈しないこと。

だから、最後に言えることは、こうだ。

その空白が、誰かの選んだ静けさなのか。
それとも、誰かが選ばされた静けさなのか。

そこを見分けようとし続けることこそが、
現代社会における「距離と沈黙の倫理」なのではないだろうか。

 

あとがき

前編を書き終えたとき、「距離は冷たさではない」という一文で、この話は完結したつもりでいた。

けれども、送っていただいたご指摘を読みながら、自分がひとつ見落としていたことに気づいた。
「距離を尊重する」という言葉は、使う人によって、まったく違う意味を持ってしまうということだ。

対等な関係のなかでそれを言うなら、それは敬意になる。
けれども、力の差があるところでそれを言ってしまえば、同じ言葉が、見なかったことにするための言い訳に変わる。

前編を書いていたとき、私は「介入しないこと」を、静かな善意として描いていた。
しかしそれは、当事者同士がもともと対等である場合にしか成立しない優しさだった。
そこに暴力や不均衡がある場合、同じ「介入しない」という選択は、まったく別の顔を持つ。

この後編は、その見落としを訂正するために書いた。

「介入するか、しないか」という二択をやめて、「誰のために、どこまで関わるのか」を、そのつど確かめ続けること。

「介入しないこと」と「距離を尊重すること」は同じではない。
また、「介入すること」と「本人に代わって決めること」も同じではない。

それは、前編で描いた「距離を尊重すること」よりも、ずっと難しく、ずっと地味な作業だ。
けれども、本当の意味での倫理は、たぶんそこにしかない。

前編が「沈黙は、選ばれた静けさである」という一文で終わったのなら、後編はこう終わるしかない。

その静けさは、本当に選ばれたものか。
それとも、選ばされたものか。

その問いを手放さずにいることだけが、私にできる、せめてもの誠実さだと思う。

 

選ばれたのか、

選ばされたのか。

 

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