「文学・絵画・世紀末文化」十九世紀末ヨーロッパの美意識

森の方、たしかに惹きつけられますね。木々のアーチが額縁のように水面を囲んでいて、その奥にかすむ尖塔群──まるで『さかしま』の人工庭園と、記事終盤で書いた「もう戻らない時間」が同時に visualize されているような構図です。 ビアズリー的な白黒のコントラストも効いていて、水面の反射で「実像と虚像の境界が曖昧になる」感じが、デカダンスの「現実より人工の方が美しい」というテーマとも響き合っています。1枚目の山も悪くないですが、余白が広すぎて記事のアイキャッチとしてはやや寂しく、森の方が情報量と余白のバランスが良いと思います。 トレンド
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美しいものほど、どこか壊れやすい——そう感じたことはないでしょうか。

十九世紀末のヨーロッパで花開いた「デカダンス文学」は、まさにその感覚を極限まで突き詰めた芸術運動でした。

自然を拒み、人工の美に耽溺した『さかしま』の主人公。
病と死のなかに生の輪郭を見出した作家たち。
そして、美しさと危うさを一身に背負ったサロメという存在。

今回は、滅びゆくものへの憧れという、私たちの中にも息づく感覚をたどっていきます。

デカダンス文学とは?

デカダンス文学とは、十九世紀末のヨーロッパ、とりわけフランスを中心として発展した、ある美意識を共有する文学の総称です。

ただし、「デカダンス文学」という名前の一枚岩の文学運動が存在したわけではありません。

象徴主義や唯美主義、世紀末文学などと重なりながら、さまざまな作家が独自の形で「退廃」の美を表現しました。

その代表的な作家の一人として挙げられるのが、ジョリス=カルル・ユイスマンスです。
彼の小説『さかしま(À rebours)』は、デカダンス文学を考えるうえで特に重要な作品といえます。

 

『さかしま』──自然から離れていく男

『さかしま』の主人公デ・ゼッサントは、社会から距離を置き、自分自身の感覚と美意識だけを追求する人物として描かれます。

彼は自然をそのまま受け入れるのではなく、人工的な世界を作り上げようとします。

珍しい植物。
香水。
宝石。
美術品。
文学。
室内装飾。

そして、極端に洗練された感覚。

ここには、デカダンスの重要な特徴があります。

それは、

「現実よりも人工的に作られた美のほうが美しい」

という倒錯です。

自然から離れるほど、人間の感覚は精密になる。
しかし、その精密さは同時に人間を現実から遠ざけてもいきます。

『さかしま』には、まさにその矛盾が描かれています。

 

デカダンス文学に登場する「病」

デカダンス文学では、病がしばしば重要なモチーフになります。

しかし、ここでも「病気だから美しい」という単純な話ではありません。

病は、人間の身体が完全ではないことを可視化するものだからです。

健康な身体は、生命の力を象徴します。
一方、病に侵された身体には、生命の脆さが現れます。

そしてその脆さは、

「生きている」ということが、同時に「死へ向かっている」ということでもある

という事実を浮かび上がらせます。

デカダンスが病や死に惹かれた背景には、このような生と死の近接がありました。

 

デカダンスと「世紀末」

デカダンスが十九世紀末に強く現れた理由の一つが、「世紀末」という時間感覚です。

十九世紀から二十世紀へ。
一つの時代が終わろうとしていました。

もちろん、暦の上で世紀が変わるだけなら、それほど重大な出来事ではありません。
しかし人間は、「時代の終わり」に特別な意味を与えます。

文明にも人生にも、始まりと終わりがある。
その意識が強くなればなるほど、文化は「終末」の美学を持つようになります。

そのため世紀末芸術には、

  • 廃墟
  • 墓地
  • 天使
  • 骸骨
  • 仮面
  • 衰退
  • 退廃
  • 神秘

といったモチーフが繰り返し登場します。

これは単なる「暗い趣味」ではありません。

終わりを意識することで、現在の美を強く感じる

──そうした、時間に対する感覚です。

 

モローの絵画とデカダンス的美意識

十九世紀末の芸術を語るうえで、ギュスターヴ・モローの存在も重要です。

モロー自身を単純に「デカダン派」と分類することには注意が必要ですが、彼の作品に見られる、

  • 宝石のような装飾性
  • 神話世界
  • 官能性
  • 神秘性
  • 異国趣味
  • 女性像
  • 象徴的なモチーフ
  • 現実から離れた幻想世界

などは、十九世紀末のデカダンス的な感性と響き合っています。

特にサロメのような人物は、世紀末芸術において繰り返し描かれました。

彼女の名は新約聖書には登場せず、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』に由来しますが、後世の文学・絵画において「美しく、危険で、官能的で、死と結びついた存在」として造形され直されていきます。

つまり、

「美しいものが危険である」

という世紀末的な逆説を象徴する存在でもありました。

 

デカダンスが現代にも残したもの

デカダンスは十九世紀末の一時的な流行として終わったわけではありません。

その美意識は、その後の文学や映画、ファッション、音楽、漫画、アニメーションなどにも繰り返し現れます。

たとえば、

  • 美しい吸血鬼
  • 死を背負った青年
  • 廃墟の宮殿
  • 夜の庭園
  • 仮面をつけた人物
  • 滅びゆく王国
  • 美貌と死の結びつき
  • 禁断の愛
  • 永遠の若さ
  • 人間ではない存在への憧れ

──といったモチーフです。

これらはすべて、デカダンスと完全に同じものではありません。

しかしそこには、

「美しいものは、どこか壊れやすい」

という感覚が共通しています。

 

なぜ私たちは「滅びゆくもの」に惹かれるのか

「静寂の彼方」

デカダンスを遠い十九世紀末の文化として眺めるだけでは、その魅力は十分に見えてきません。

なぜなら、私たち自身もまた、失われるものを美しいと感じるからです。

古い建物。
色褪せた写真。
誰もいない劇場。
廃墟。
使われなくなった家具。
枯れた花。
古い手紙。
墓地に残された名前。

それらが美しく見えるのは、単に古いからではありません。
そこには、

「かつて存在したものが、もう戻らない」

という時間が刻まれているからです。

デカダンスは、その感覚を極端なところまで押し進めました。

 

星灯の一言

森の奥に沈む尖塔を見つめながら、星灯はふと思いました。

滅びゆくものが美しく見えるのは、それがもう戻らないと知っているからかもしれません、と。

今夜だけは、その儚さをそっと心にしまっておこうと思います。

 

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